1 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:23:18.80Sev9O2YP0 (1/59)

『真夏』という単語を聞くと、何を想像するだろうか。
澄み渡るような青空、潮風が心地よい海、
友達と食べる氷菓子、浴衣を着ての夏祭り。
そういった夏の風物詩を何の疑いもなく思い浮かべられるのなら、
その人はおそらく、とてつもなく幸福だ。

彼女は違う。
脳味噌が腐るような暑さ、ところ構わず湧き出る蟲、
それによる苛立ちを隠そうともしない人々。
その上で自分は幸福であると周りに見せびらかそうと必死なリア充ども。

彼女は真夏を、毎年必ず自分に降りかかる災害と考えていた。
湿気により、普段よりよく見るようになる『トモダチ』。
それだけを心の支えにし、彼女はこの数ヶ月をひっそりと・・・
『キノコ』のように、耐え忍んでいた。

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2 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:28:28.92Sev9O2YP0 (2/59)

「お前、キノコじゃなかったのかァーーーッ!!!」

地響きのような重低音が鳴り響く。
ステージは小さく、観客は両手で数え切れる。
だがこの場所は、ドームの大舞台を彷彿とさせるほどの圧倒的な熱量を放っていた。
観客は皆一点を見つめて騒ぎ、飛び跳ね、叫ぶ。
視線の先は小さな少女。
左目には星型のペイントが施され、マッシュアップ★ボルテージと呼ばれる奇抜な衣装に身を包む。

熱気を含んだ酸素は彼女の折れてしまいそうな細い喉を抜けて唄となる。
彼女の魂を通った唄は透き通るような声質を帯び、そして同時に爆発するような荒々しさをも兼ね備えた。
その絶唱は観客全員の鼓膜を、心を震わせた。
叫べ!叫べ!叫べ!
怒りを!悲しみを!慟哭を上げろ!!
思うさま感情をぶちまけろ。此処ではそれが許される。

曲が終盤に入る。最後の見せ場、ラスサビのシャウトが迫る。
観客の口角が思わず上がる。期待の目を彼女に向ける。
その期待を受けて、彼女。
彼女は笑わない。期待を裏切らない為に、全霊を込めて最高のシャウトを決める為に。冷静に。
笑わない。
笑わない。

筈がない。

シャウトに備え息を吸う時、彼女の口角が吊り上がっていた。
どうしようもなく興奮しているのだ。
どうしようもなく感情が膨れ上がり、彼女の小さな身体から溢れ出しているのだ。

パンパンに膨らんだ風船のように、ガス漏れしているボンベのように。
一種の危うさを感じるほど溜め込んだその感情は、ついに飽和状態を迎える。
それは完璧なタイミングで爆発した。聴く者全ての心を奪う程の、魂の籠ったシャウトだった。
冷静に、全霊を込めた最高のシャウトなんかよりも、ずっと、ずっと最高のシャウトだった。


キノコ・メタル・アイドル。遠く離れた3つの星が結びつき、出来た大三角形は異彩を放つ。
その星座の名前は星輝子。そのステージで、彼女以外何も見えなくなるほど眩く輝いた。



3 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:30:21.32Sev9O2YP0 (3/59)

「今日は来てくれてありがとう」

曲が終わり、彼女は客席に向かって語る。
歌唱中とは打って変わって荒々しさが抜け、年相応の可愛らしい声と風貌となった。
マイクを使っているからなんとか聞こえるが、もはや観客の声の方が大きい。
だが観客は、そんな彼女を微笑ましそうに見つめている。
『これ』を含めて彼女という事を皆理解しているのだろう。

「輝子ー!!」「最高だった!!」「カッコ良かったよ!!」

観客が口々に叫ぶ。彼女への賛辞を、愛を彼女にぶつける。
彼女は「フヒッ!?」と小さく声を漏らすと、恥ずかしそうに余所を見ながら頬を掻いた。
「大好きー!!」「最後のシャウト良すぎ!!」「かわいいー!!」
彼女の顔がどんどん赤くなっていく。
頬を掻いていた手をそのまま顔に押し当て、真っ赤になった顔を隠す。
それでも鳴り止まない観客の声に彼女は俯き、プルプルと震え出す。
そんな彼女を皆笑いながら見ていると、空気の感じが僅かに変わった。
どこかで、いや、つい先ほど感じたような、一触即発の危うさを感じた瞬間。

「ヒィィイイヤッハァーーーッ!!!」

彼女は大きく、大きく叫んだ。
瞳孔の開いた目で客席を睨み、観客に指をさす。

「そこのメガネ!そこのドクロTシャツ!お前も!お前もお前もお前も!!」

観客の一人一人に指をさしていく。
小さな会場、僅かな観客。いや、最高のステージに集まってくれた
最愛のファンに一人残らず人差し指を突きつける。

「てめェらの顔覚えたからな!!次のライブも絶対ェ来やがれ!!」

そう叫んだ後、彼女は軽く呼吸を整え、小さく手を振った。

「じゃ、じゃあ、またね」

観客は万来の拍手を送る。
大歓声の中、ライブは終了した。


4 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:32:27.51Sev9O2YP0 (4/59)

「お疲れ、輝子!最高のライブだったな!」

「あ、ああ。ありがとう、プロデューサー」

楽屋に戻った輝子に男がタオルを手渡し、右手を挙げる。
彼女はタオルを受け取ると、その手に合わせるように弱弱しくハイタッチした。

男は彼女のプロデューサー。
輝子の趣味であるキノコとメタルを結びつけ、彼女をアイドルとして売り出した。
彼は自信を持って言う。「これが輝子の魅力を一番引き出せるプロデュースだ」と。
その言葉自体は間違っていないだろう。
だが、彼は内心焦っていた。
ハイタッチした右手を気恥ずかしそうに眺める輝子。彼女を見つめ、彼は考えていた。
観客が少なすぎる。彼女はもっと人気になっていい筈なのに。

本当にこれでいいのだろうか。

その言葉が頭に浮かんだ時、楽屋の扉が開く。
二人が音に反応して扉の方を見ると、一人の男が入って来た。

男は挨拶もなしに輝子に近付くと、じろじろと彼女の顔を眺める。
輝子は眉をひそめ、助けを求めるようにプロデューサーに視線を投げた。
プロデューサーは一瞬呆然としていたが、慌てて二人の間に割って入った。

「君、何の用ですか」

男はプロデューサーの言葉に反応したのかそうでないのか、小さく呟いた。

「顔は良いな」

ピクリと反応する二人。だが男は吐き捨てるように続けた。

「売れてないけど」

「なっ──」

プロデューサーはその男を連れ出そうと彼に迫った時、静止するように男は片手で名刺を差し出した。

「申し遅れましたが、こういう者です」

彼は別事務所のマネージャー、それも誰もが名前を知っているような、超大手のプロダクションだった。


5 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:33:24.27Sev9O2YP0 (5/59)

プロデューサーは驚きながら名刺をまじまじと見つめていると、その男は彼にぼそぼそと耳打ちした。
輝子はプロデューサーの顔を見て驚いた。
普段の彼は温厚で、注意をする事はあれど怒った顔など見た事ない。
なのにその時、彼はすごい怖い顔をして男を怒鳴った。

「結構です!出て行って下さい!!」

「そうですか。気が変わりましたら名刺の番号に」

軽い口調の男を追い出し、プロデューサーは眉を吊り上げながら椅子に座り直した。

「親友……?」

見た事のない親友の顔に不安になり、輝子はおどおどと話しかけた。

「ああごめん、なんでもないよ」

だが彼は輝子の顔を見るとすぐ優しい顔に戻り、彼女に微笑んだ。

「……なんでも」


6 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:34:58.24Sev9O2YP0 (6/59)

それから数週間、輝子はいつものように日々を過ごした。
アイドルとしての仕事もいつも通りこなし、プロデューサーと遊んだりした。
その時、彼にほんの少し違和感のようなものがあった。
輝子と話していると、どこか遠い目をしたり、辛そうな顔を見せた。
だがそれは一瞬の事だったので輝子は気のせいだろうと思い、特に何かする事はなかった。


7 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:35:55.83Sev9O2YP0 (7/59)

ある日、いつものレッスン終わりにプロデューサーは輝子を呼び出した。

「なんだ?親友……」

プロデューサーに促され、向かいの席に座る。
彼はとても苦しそうな顔をしていた。
だが、普段通り「輝子」と普段通り優しく名前を呼ぶ。

「お前がここに来て一緒にやってきて、もう一年経ったな。
最初の頃に比べて、本当に逞しくなった。成長したと思うよ」

「え?」

「お前は本当によく頑張ってる」

彼は優しく笑う。
唐突に褒められ、輝子はむず痒いそうににやける。

「や、やめろよ、親友……フヒヒ」

ぽりぽりと頭を掻く彼女を見て、プロデューサーはどこか寂しそうな顔をした。

「もう、お前はどこでもやっていける」

その言葉に、輝子はなんだか嫌な予感を感じた。

「親友…?」

そして、嫌な予感は的中した。

「この事務所じゃお前の実力は活かせきれない。お前はもっと人気になっていいアイドルだ」

口調は明るく、だけど目元は笑っていない。拳を握りしめ、彼は言った。

「どうだ、もっと大きいプロダクションで輝いてみないか?」

輝子はその言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。
目の前が歪んで見えた。思わず倒れそうなほど、彼女は動揺した。
別のプロダクションに行く。それはつまり、親友と離れるという事。
「嫌だ」そう言いそうになった。そう言いたかった。それが本音だった。


8 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:36:45.98Sev9O2YP0 (8/59)

「お前のポテンシャルはこんなものじゃない。もっと資金力もコネクションもあるところに行けば
すぐトップアイドルになれる。俺が保証するよ」

親友は、自分を信じてこの話をしてくれた。
自分の為に、自分を送り出す話をつけてくれた。
なら、この話を断るという事は、親友の信頼を裏切るという事になるんじゃないか?
そう思い、否定の言葉が口から出せなかった。

「なあ、輝子?」

答えを聞くべく、彼が名前を呼ぶ。
彼女は、小さく息を吸い、震える唇を開いた。

「わかった。ありがとう親友」


9 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:37:21.94Sev9O2YP0 (9/59)

輝子は手渡された地図を眺め、指定された場所へ来た。
そこは新しいプロダクション。

「すごい…大きいな……」

受付の人に会っておどおどと話をすると、数分後にマネージャーが来た。
彼は以前ライブ終わりに、自分たちの楽屋に入って来た男だった。
彼は輝子を見下ろすと、ろくな挨拶もなしに彼女を事務所へと連れて行った、


10 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:40:36.86Sev9O2YP0 (10/59)

自分の事務所にやって来た彼女をじろじろと眺めると、吐き捨てるように呟いた。

「前の事務所ではどんな扱いだったかは知らねえが、ここでは俺の言う事に従え。分かったな?」

「あっ・・・は、はい」

男は輝子と彼女のプロフィールを見比べる。

「ていうか星輝子ってマジで本名かよ。キラキラネームってやつか」
「身長142?ちっちぇー。まあロリコンにはウケるかもな」
「誕生日6/6・・・呪われてんのか?生まれからして不吉なやつだな」

男は彼女のプロフィールの感想を呟いていく。
悪意はない。ただ淡々と、まるで自分の意見が世論そのものというように
当たり前のように彼女を馬鹿にする。
元々自分に自信のない彼女は、素直にその感想を受け入れてしまう。
ただの数分で彼女の在り方が、今までの人生が否定されていく。
劣等感で押し潰されそうになり、彼女の目には涙が滲んでいた。


11 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:42:10.58Sev9O2YP0 (11/59)

「なんだ?嫌なら帰るか?」

半泣きの彼女を見た男は、小さく舌打ちをして問いかけた。
輝子は僅かに首を横に振る。
親友が自分の為に連れてきてくれたのだ。初日に帰れるわけもない。
嫌みったらしくため息をつくと、再びプロフィールに目を落とす。
輝子はいたたまれないように俯き、この地獄が終わるのを待っていた。
何を言われても気にしないように、心を殺していた。
だが、男の視線が趣味欄を走り、出てきた言葉を聞いた時。

「趣味何これ?キノコ栽培って・・・気持ちわりい」

輝子は顔を上げ、大きく目を開いた。

「キノコは・・・気持ち悪くなんか、ない」

か細い、掠れた声だが、彼女は答える。
自分の事は何を言われても構わない。
だが、大事なトモダチだけは、悪く言うのは許せない。
ひとりぼっちの自分に、辛い時も、苦しい時も、ずっと一緒にいてくれた
トモダチが馬鹿にされるのだけは、黙って聞くことはできない。

「いや気持ちわりいだろ。何言ってんだ」

「気持ち悪く、ない。キノコは、大事な、トモダチなんだ」

縋るような目で、男を見つめる。
男は輝子を見下ろすと、腑に落ちたような顔で鼻を鳴らした。

「ああ、そういえばお前、メタルなんてのやってたな」

彼女は虚を突かれたような顔をした。

「それが、なん…」

「いや、どこまでも趣味の悪い奴だなって」

輝子の瞳孔が開いていく。
男は彼女を見下ろしたまま語り続ける。

「メタルとか一部のオタクがカッコいいと勘違いしただけの低俗な音楽だろう?」

彼女は小さく小さく呟く。

「だまれ」

「うるさいだけの悪趣味なものを嬉々として押しつけて…サブイボが立つわ」

「だまれ、だまれ」

「メタルのジャケットって無駄にグロいものが多いだろ?自分は他人とは違うって
わざわざ人が避けるようなものを好んでるフリをしてるんだよ」

「だまれ、だまれだまれ」

血の滲むほど拳を強く握る。
歯を食いしばり、顔を震わせて男を見つめ続ける。

「気持ち悪いお前にはお似合いな、気持ち悪い趣味だ」

輝子はついに、男に詰め寄って叫んだ。

「てめェーッ!黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって!!」


12 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:43:15.84Sev9O2YP0 (12/59)

驚いたように眉を動かす男に向かって、溜め込んだ怒りを思い切り吐き出す。

「メタルは最高にカッコいい音楽だ!!いつも私を支えてくれたトモダチなんだ!!
お前はメタルをまともに聴いた事があるのか!?そんなご大層な事言えるほどには聴き込んだんだろうな!?
デスメタルを!!ブラックメタルを!!スラッシュメタルを!!ありとあらゆるヘヴィメタルを聴いたんだろうな!?」

男は彼女の怒りを真っ向から受け止める。
息を切らし、涙目になりながら自身を怒鳴りつける少女に向かって、
男はゆっくりと言った。

「あんなもの、まともな人間は聴かない」

ぐらりと彼女の視界が揺らいだ。
あまりの怒り、世間との断絶、失意、絶望、彼女の小さな身体では
抑えきれないほどの感情が湧き上がる。

「ふっざけんじゃねェーッ!!」

再度の絶叫。人を殺すような気迫。
しかし男に響いた様子はなく、ただ不快そうに顔を歪め、頭を掻きながら呟いた。

「うるっせえなあ」

そして男は当然のように言い放った。

「そんなだから、あのプロデューサーにも捨てられたんだよ」

「……えっ?」

男の言葉を聞いて、彼女は自分でも驚くほど間の抜けた声を出した。
一切考えていなかったその言葉によって、風船が萎むように力が抜けていくのを感じた。


13 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:44:13.47Sev9O2YP0 (13/59)

「なんだ、気付いてなかったのか?」

男は彼女を鼻で笑う。

「親友が、私を捨てる…?そんなこと……」

ついさっきまで勇ましく吼えていた彼女の面影はない。
不安そうに視線を動かし、幼子のように両手を胸の前で握る。

「だって、親友は…私のためにって…」

「そんなもん方便に決まってんだろ」

男は続ける。

「考えてもみろ。キノコだのメタルだの気持ち悪いものに固執して、挙句の果てに
大声で喚き散らかす。厄介払いできて清々してるだろうさ」

心臓が凍るように冷たく感じた。体中から汗が噴き出るのを感じた。
今にも泣きそうな顔をして、声を震わせ、壊れた玩具のように「違う」と呟き続ける。
そんな彼女に男は容赦なく罵声を浴びせ続ける。

「分かるか?その優しい『親友』とやらも匙を投げるほどの社会不適合者なんだよ、お前は」

「誰からも好かれない。会う人全員に嫌われる。永遠に独りだ」

「自分を客観的に見たことがあるか?薄汚い菌の塊を好んで触って、
喧しいだけの音楽を聴いて不気味に頭を振っている自分を」

「キノコもメタルもお前を救いなんかしない。お前を殻に籠らせるだけだ」

「お前が固執してるものが、お前を独りにさせてるんだよ」

言い返す事ができない。
親友に捨てられた。この男はそう言っている。
嘘だと思いたい。だが男の話を聞くと、本当にそうだと思えてくる。
自分の気持ち悪さは分かっている。
でも親友は優しくしてくれた。
……嫌々だったのか?こんな気持ち悪い自分とは、さっさと離れたいと思いながら、
嫌々付き合ってくれていたのだろうか?
一度そう思うと、もうその思考は頭から離れない。
ぐるぐると真っ黒な感情が脳に充満し、彼女は震えながら俯いた。


14 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:45:54.44Sev9O2YP0 (14/59)

「分かったか?キノコもメタルも、金輪際手を出すな」

彼女は何も言う事ができず、うつむいたまま黙る。

「返事はどうした!!」

大の大人に怒鳴られ、輝子の小さな身体がビクンと跳ねる。
あまりの恐怖、また度重なる罵倒で委縮した事もあって、
彼女は小さく「はい」と答えてしまった。

「よし、じゃあ今から言う事を復唱しろ」

「『キノコは気持ち悪いだけのただの菌の塊です』」
「『メタルはオタクしか聴かない気持ち悪いな音楽です』」

心臓を掴まれたような気がした。これを言ったら、今までの自分を、
自分を支えてくれたトモダチを、全てを裏切る事になってしまう。

「ほら、早く言え」

だが、男の言葉で彼女の中に疑問が湧いてきた。キノコやメタルは本当に自分の思うように
良いものなのだろうか。誰にも理解されない、自分を独りにさせる物に、
これ以上執着するべきなのだろうか。

「なんだ、復唱の意味も分かんねえのか?小せえと思ったら中身も小学生か?」

彼女は俯いたまま、小さく首を振る。
男は足を踏み鳴らし、大きく叫ぶ。

「言えって言ってんだよ!言え!!」

輝子は涙をぼろぼろと零し、口を開いた。


15 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:46:36.84Sev9O2YP0 (15/59)

打合せが終わり、輝子は自分の家に帰って来た。
ふらふらとおぼつかない足取りで、目は虚ろで、元気どころか生気を感じない。
家は暗く、誰もいなかった。
電気を点け、独りの家に足を踏み入れた。
自室に入る。やはり暗い部屋の明かりを点けると、部屋の隅にはトモダチが、キノコが置いてあった。
暇さえあればいつも愛でていた、キノコが。
いつものように霧吹きを吹きかける。ひっそりと佇むその姿が愛しくて、大好きだった。
その姿を見ていると、なんだか、なんだかすごく悲しくなってきて、彼女は肩を震わせて、声を出さずに泣いた。


16 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:47:25.65Sev9O2YP0 (16/59)

「こいつがお前らとユニットを組む事になった星だ。おら、挨拶しろ」

次の日事務所に行くなり、マネージャーは輝子を二人の少女の元へ連れて行った。

「ど、どうも、星輝子です。よろしく……」

たどたどしく挨拶する。一緒に仕事をする二人はどんな人だろうか。
少しの期待とかなりの不安を感じながら、二人に目を配る。

「星さんですね!ボク…私は、輿水幸子といいます!」

幸子という少女は元気よく名乗る。不安が少しだけ大きくなった。

「白坂、小梅…です…。よろしくお願いします……」

小梅と名乗る少女は気が弱いのか、小さな声で挨拶した。
シンパシーを感じ、少しだけ気が楽になった。
幸子は小梅の挨拶を見てなんだか優しく微笑んでいる。
二人とも良い人そうだ。これなら、一緒にやっていけるかも──

「ああそうそう、星。次癇癪起こしたら即刻追い出すからな」

どくん、と心臓が高鳴り、二人を見直すとギョッとした目で輝子を見ていた。


17 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:48:18.80Sev9O2YP0 (17/59)

「全員チビで組ませた事で察しはついてるかもしれんが、ターゲット層はロリコンのオタクだ。庇護欲を煽るようにオタクに媚びろ。」

マネージャーは冷たい目で三人に目配せする。

「キモオタ狙いだから歌や踊りは別に見られないだろうが……うちの事務所に泥を塗らないように死ぬ気でやれ」

そう言い放つと、レッスントレーナーを呼び出して部屋から出て行った。



「お疲れ様です、星さん」

レッスンが休憩に入ると、幸子は輝子に話しかけ、隣り合わせに座った。
同じユニット同士、早く距離を縮めようとしてくれているのだろう。
人との会話が苦手な輝子ではあったが、不自然なところもありながら相槌を返していると
幸子は不意に溜息をつき、呟いた。

「それにしても、ほんとマネージャーさんってイヤな人ですよね!」

思わずビクッと体が震えた。なんとなく禁句のように思っていたからだ。

「それでいて実績はあるんですから……他のところにも行き辛いし」

スポーツドリンクをちびちび飲みながら愚痴を漏らす幸子を見て、
輝子は聞いていいのか迷いながら、おそるおそる尋ねた。

「輿水さんは……あの人に、何か言われたの?」

それを聞くと幸子は目を見開き、輝子を指さして叫ぶ。

「言われまくってますよ!!」

「フヒッ!?」

「あ、ごめんなさい」

「こ、こっちこそごめん、キモい声出して」


18 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:49:59.22Sev9O2YP0 (18/59)

輝子は頭を掻きながら、おずおずと再び尋ねる。

「どんな事、言われたの?」

幸子は少し考えて答える。

「えーと……第一に、ボクってカワイイでしょう?」

「え?」

思わず聞き返してしまった。

「え?」

否定されたと思ったのか、幸子は捨てられた子犬のような寂しそうな顔をした。

「い、いや、かわいい、と思うよ。すごく」

「フ、フフーン!当然ですけどね!」

得意げに笑う幸子を見て輝子は驚く。
これがリア充というものなのか。自分への自信が凄く強い。
実際とても可愛いし、実力に裏付けされた自信という事なのだろうか。
それは……羨ましいな。そう思った。
幸子は続ける。

「それなのにあの人、お前はカワイくない、とか!ボクをボクと言うのやめろ、とか!そんな事言って!ボクは!!」

そう言いながら次第に涙目になっていった。

「ボクは、こんなにカワイイのに……」

俯いてしまった幸子を見て、ぽんぽんと慰めるように頭を優しく叩いていた。
思わず。何をやっているんだ。慌てて手を引っ込める。

「幸子ちゃんカワイイでしょ」

不意に背後から聞こえた声に驚き振り向くと、もう一人のユニット仲間、小梅が輝子の顔を覗き込んでいた。

「白坂…さん、だよね」

「うん。星…さん」

ぎこちなく笑いながら彼女を見る。
自分と同じように気が弱そうで、親近感が湧く。
深い隈を携えた瞳に吸い込まれてまじまじと顔を見ていると、とある事に気付いた。
この子もとんでもない美少女だ。
思わず座ったまま後ずさりをしてしまった。

「あっ……」

失礼な事をしてしまった。人の顔を見て後ずさるなんて。
まるで"怖がる"ようなリアクションを取ってしまうなんて。

「ご、ごめん、白坂さん……」

小梅は顔を伏せてしまった。
どうしよう。最悪だ。なにか言わなきゃ。何か。
そう思っていると、小梅はお化けのように両手を顔の前に垂らし、ゆっくりと顔を上げて舌を出した。

「ばぁ…♪」

「……」

「ふふ……」

「フヒ、フヒヒ……」


19 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:51:14.32Sev9O2YP0 (19/59)

ユニット仲間との顔合わせ、新しい事務所の初レッスンを終えて輝子は帰路に就いた。
昨日とは打って変わって彼女は上機嫌だった。
幸子も小梅も優しそうで、これから上手くやっていけそう。
そう考えると思わず鼻歌を歌い、柄にもなくスキップ交じりで歩いていた。
やがて彼女の家に着く。
楽しそうに一人笑いながら家の鍵を開け、扉を開いた。

今日も家は真っ暗だった。

電気を点け、独りの家に足を踏み入れた。
さっきまで暖かい気持ちだったのに、何故だか少し気分が落ち込んで、吊り上がった口元がゆっくりと下がっていった。

自室に入る。当たり前だが、部屋も真っ暗だ。
電気をつければ部屋の隅にはキノコが置いてある。
彼女はキノコをじっと見つめた。
キノコを見ていると、お腹の底からぐるぐるとよく分からない、嫌な気持ちが湧き上がってきた。
頭を振り、霧吹きで水をやる。そしてそのキノコに背を向けるようにベッドに座った。
傍らにはメタルのCDケースが置いてあった。
お気に入りのバンドの新譜で、1曲目からずっと最高にカッコ良い曲ばかりの名盤だ。
連日ずっと寝る直前まで聴いて、寝不足になったのを思い出す。
彼女はその大好きなバンドの大好きなアルバムのジャケットを眺めて呟いた。

「グロい、な」

CDを伏せ、ぽすっとベッドに倒れた。


20 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:51:54.29Sev9O2YP0 (20/59)

「みんなで遊びに行きましょう!」

幸子はレッスン終わりにそう言った。
彼女達が出会ってから半月ほど経過していたが、これまでプライベートで時間を共にした事はなかった。
決して仲良くなりたくない訳ではない。三人とも距離を測りかねていたのだ。
幸子の意を決した提案を控えめに了承した二人は、とりあえずこれからどこかに行く事にした。

レッスン終わり、空が朱く染まる時間。
どこか遠くには行けない。
とりあえず近くのデパートに行くことにした。


「それでですね、うちの先生が~……」

「幸子ちゃん、それって……」

「フヒヒ、それは凄いな……」


横並びに歩きながら、たわいもない話をする。
ただそれだけだが、輝子は内心小躍りしたいほど喜んでいた。
これが夢にまで見た『トモダチと遊びに行く』というやつか。都市伝説か何かじゃなかったのか。
ただ一緒に歩いて話しているだけなのに、普段休憩時間と話すのとは全然違う、どこか満たされた気分になっていく。

だけど、ほんの少しの疎外感のようなものを感じていた。

「フフーン!星さんも小梅さんと……」

「星さん、幸子ちゃん……」

いや、これ以上欲張っちゃだめだ。
十分だ。十分すぎるくらいだ。
彼女はそう思い、笑いながら話し続ける。

「輿水さんと、白坂さんは……」


21 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:53:38.75Sev9O2YP0 (21/59)

歩き続け、やがてデパートに到着した。

「何か買いたいものとかありますか?」

「えーと…特に、ないかな……」

「私も……」

「え、ないんですか!?……ボクもないですけど……」

行き当たりばったりな三人は、とりあえずフードコートに行くことにした。

ジュースとポテトをそれぞれ頼み、三人は席に着く。
結局どこに行ってもやる事は変わらない。
ただただ取り留めのない、世間話をするだけだ。
そしてこのどうでもいい時間が、何よりも心地良かった。

「そういえば星さんって何か好きなものとかありますか?」

「え?」

唐突な質問に思わず声が漏れた。

「好きな映画とか」

「映画っ……」

なぜか小梅が反応した。

「映画か……」

輝子が言いよどむと、幸子が口を挟んだ。


「よく聴く『音楽』とか」


一瞬呼吸する事も忘れてしまった。

「星さん?」

誤魔化すようにジュースのストローに口をつける。緊張のあまり味も分からなくなった液体を喉に流し込む。

頭の中は一つだった。
メタル。メタル。メタル。
言いたい。言いたい。共有したい。

こちらの顔を覗き込んでくる幸子と小梅。
この二人と一緒にメタルの話が出来たらどれだけ楽しいだろうか。
想像しただけで嬉しくなってくる。
輝子はゆっくりと口を開いた。
だが、喉からその三文字が出てくるまでに、心に巣食った言葉が。

『メタルはオタクしか聴かない気持ち悪い音楽です』

その言葉が、彼女の脳を占領した。
期待で上気した体が、一瞬にして冷えていくのが分かった。
喉から出かかった三文字を飲み込み、彼女は。

「最近CMで流れてるあの、アイドルの曲、良いな…って」

そう、咄嗟に言ってしまった。嘘をついてしまった。


22 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:54:33.05Sev9O2YP0 (22/59)

「ああ、アレですか。星さんってああいう曲好きなんですか?」

「うん、ああいうのが、好きかな」

そう言っていると、お腹の底で真っ黒なものが渦巻いているような感覚になった。
震える手でジュースを置く。
どこか納得するように見てくる幸子と小梅をよそに、輝子の頭の中はある事でいっぱいになっていた。
自分は、メタルを本当に低俗な音楽だと思っていたのか?
咄嗟に隠してしまうほど気持ち悪い趣味だと思っていたのか?
自分に寄り添ってくれたメタルを、裏切ってしまったのか?

「星さん、気分悪いの?」

小梅が話しかけてきた。
急に黙ってしまったからだろうか。心配をかけてしまった。

「ううん、だいじょうぶ、だよ」

急いで笑顔を作り、頭の中の『それ』を振り払う。
今はこの時間を楽しまなくては。


23 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:55:21.82Sev9O2YP0 (23/59)

しばらく談笑していると、時計を見て幸子が呟いた。

「うわ、もうこんな時間ですか、もう帰らなくちゃ……」

「そっか、じゃあ今日はお開きだな……」

「楽しかった……また、一緒に遊ぼうね」

帰り支度を始める、輝子は席を立つ。
トレイを持ったところで、不意に幸子が話しかけた。

「星さん!」

「ん、なんだ?」

幸子は小梅に目配せをする。二人ともむず痒そうにもじもじとしたと思うと、幸子が口を開いた。

「これからも一緒に、頑張っていきましょう!ボクたちはユニット仲間で……『友達』なんですから!」

幸子に合わせて小梅も続ける。

「私も、『友達』だから。なんでも、なんでも言って。なんでも、話してね」

二人は顔を赤くしながら、輝子に笑顔を向けた。

輝子は二人の顔を交互に見る。
震えながら俯き、やがて、再び顔を上げる。

「ありがとう、二人とも……」

もにょもにょと口を動かした後、輝子は大きく口を開いた。

「ありがとう、幸子ちゃん、小梅ちゃん!!」

「……ええ!輝子さん!」

「輝子、ちゃん…!」

輝子は真っ赤にしたまま、もう一度口を開いた。
感謝の気持ちを。一度では出し切れなった、15年分の感動を。

「ありが、とう!!」

二人の笑顔を見た後、輝子は踵を返し走り出す。
高まる感情を抑え、抑え、抑え、誰よりも速く走る。
デパートを出て、すっかり暗くなった闇夜に叫んだ。


「ヒィィイイヤッハァーーーー!!!」


15年分の歓喜の叫びが、夜の闇に消えていった。


24 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:56:21.67Sev9O2YP0 (24/59)

『ターゲット層はロリコンのオタク』

マネージャーがそう言った通り輝子はロリータ衣装に身を包み、とにかくかわいらしく振舞った。
当然キノコもメタルも封印した。幸子と小梅にすらその趣味の事を話す事はなかった。

やがて三人のユニットはマネージャーの目論見通り、20代以降の男性層を中心にヒットした。
他に人気アイドルが多数所属している事務所なので大した扱いにはなってはいないが、
それでも以前の事務所にいた頃とは比較にならない程のファンが付いていた。

輝子は大量に届いたファンレターを読んで、にやにやと嬉しそうに笑っている。

『輝子ちゃん、大好きです!!』
『出勤前、輝子ちゃんの唄を聴いてやる気出してます』
『かわいすぎる、ありえん。天使か?』
『輝子ちゃんのおかげで友達ができた!ありがとう!!』

そういった内容の手紙が段ボール箱いっぱいに届いているのだ。
みんなが私を褒めてくれている。そう実感し、吊り上がる口角を抑える事ができない。

「輝子さん?」

「フヒャッ!?」

背後から急に話しかけられ、変な声を出してしまった。
幸子は驚く輝子の反応に驚いている。
申し訳なさと恥ずかしさに頭を掻く。

「ご、ごめん。何?」

「い、いえ……じゃなくて、これ、どうぞ!」

幸子はCDケースを差し出した。

「これは…?」

「前輝子さんこのアイドル好きって言ってたじゃないですか。もし持ってなかったら貸してあげますよ」

ずきん、と心が痛むような気がした。

「そ、そんな…いいのか……?」

「いいんですよ!どうぞどうぞ!」

遠慮がちに受け取り、ジャケットをまじまじと見つめながら笑う。
これはトモダチ同士がやる物の貸し借りというやつではないか。
今になって実感が湧いてきて、なんだか胸の奥でこみ上げてくるものがあった。

「ありがとう幸子ちゃん。すぐ聴いてみるよ」

二人は嬉しそうに微笑んだ。


25 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:57:13.35Sev9O2YP0 (25/59)

輝子は今日の幸子との出来事を思い出し、にやにやと笑う。
家に帰った輝子はさっそくCDを機材に入れ、スマホに取り込み、再生した。

いい曲だ、と思った。本当に。
メロディアスで、耳当たりがよくて、歌詞も元気が出るようなものばかりだ。
そりゃあ人気が出るな、と思った。
でも、何か物足りない、とも思った。
足りない筈がない。みんなこれが大好きなんだ。
自分だけ好きになれないなら、それは私がおかしいんだ。そう思い、もう一度再生した。
ふと横を見ると、ずらりと並んでいるメタルのアルバムが視界に入った。
彼女はそれに布を被せ、見えないようにした。
部屋の隅では目立たないところに押し込まれたキノコが、彼女を見つめるようにひっそりと佇んでいた。


翌日、一通りの感想を考えた輝子は事務所で幸子を待っていると、小梅が話しかけてきた。

「輝子ちゃん、これ、家にあったから……あげる……」

手渡されたCDは、件のアイドルのアルバムだった。
気恥ずかしそうに笑う小梅に、輝子も笑った。


26 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:57:55.66Sev9O2YP0 (26/59)

新しいプロダクションに行き、そんな日々を過ごしたある日の事。
輝子はいつものように自室のベッドで目を覚ました。
冷房をつけてなお外から熱気が入り込む、真夏日。
夏、そう、夏だ。
自分が嫌いで嫌いで仕方なかった夏。
でも、リア充はみんな好きな夏。
みんなで海に行って、浴衣を着て夏祭りを楽しむ季節。
リア充は暑さも楽しむことができるのだろうか。ずっとそう思っていた。
そして、こうも思っていた。
自分は……もう、リア充なんじゃないだろうか。
幸子ちゃんと小梅ちゃん。大好きなトモダチができて、一緒に遊んで。
今の自分なら、夏の暑さも楽しむことが出来るんじゃないだろうか。
そう思えた。気付くと身支度をして、どこに行くでもなく、外へ出ていた。


27 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 00:58:36.12Sev9O2YP0 (27/59)

耳を劈く蝉の声。辺りに突き刺さる真夏の日光。
外に出て数分で後悔していた。
何も楽しくなんてない。暑い。暑い。
辛い、うるさい、苦しい、だるい、しんどい。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
リア充は本当にこの災害のような季節が好きなのだろうか。
ふと、思った。「自分はどちらでもなくなってしまったのかもしれない」と。
『どちらでも』とは何だ?
リア充と、何だ?

もう帰ってしまおうかと思ったが、ここで帰ってしまっては本当にその『どちらでもない』者になってしまう。
そう思い、家とは逆の方へ、ひたすらに歩いた。
だんだんと、見覚えのない道へと入り込んでいく。
暑さで判断力が低下しているのか、体力も、迷子になる事も考えずにひたすらに歩いていく。
額から汗が垂れる。シャツが体に張り付く。気持ち悪い。
頭が痛い。暑い。気持ち悪い。
蝉が鳴く。耳のすぐそばにいるかのような大音量で、ところかまわず喚き散らかす。
気持ち悪い。


28 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:00:54.85Sev9O2YP0 (28/59)

ふらふらと、一人歩いた彼女は公園にたどり着いた。
ちらりと中を覗いたが誰もいない。
彼女は足を踏み入れ、ベンチに腰を下ろした。
ベンチは木陰になっていたが、それでもとてつもなく暑い。
むしろ木のそばにいる事で、蝉の鳴き声がいっそう近くで鼓膜を震わせた。

彼女は項垂れ、だくだくと汗を垂れ流す。
ハンカチなどは持っていない。手や服で拭ってもきりがない。
汗でひっついた服が気持ち悪い。風で気化した汗が熱を奪い、
暑いのに寒いのが気持ち悪い。頭が痛くて気持ち悪い。
足のそばに転がる百足の死骸が気持ち悪い。
ぐるぐると思考を巡らせていると、ふと、声が聞こえた。
彼女は俯いたまま、視線を上に向ける。
人影はない。誰かがいる気配もない。
いやに重い頭をゆっくりと持ち上げ、前を見たがやはり誰もいない。
ただ、陽炎がゆらゆらと揺れているだけだった。

「気持ち悪いのはお前だろう」

やはり声が聞こえる。
暑さで頭が回らない。ぼーっと、静かに揺れる陽炎を眺める。
彼女はゆっくりとまばたきをした。
そして、目を開いた時、陽炎には色が付いていた。
もう一度まばたきをすると、人の形を取っていた。
陽炎は、彼女の方に歩いてきた。
陽炎は、赤く、黒い、奇抜だが、どこかで見た事がある格好をしていた。


29 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:02:58.88Sev9O2YP0 (29/59)

「やあ、『星輝子』」

ゆっくりと輝子の隣まで歩くと、彼女の顔を覗き込んだ。
輝子は横を見ない。見れない。
暑くて、怠くて、顔を動かせない。
怖くて、恐くて、『それ』が見れない。

「アイドルは順調みたいだなあ」

どこかで、いや、いつも聞く声をしていた。
誰よりも嫌いで、誰よりも気持ち悪い声だった。

「人間のトモダチもできたんだな、何よりだ」

輝子は、ガタガタと身体を震わせていた。
暑くて暑くて気持ち悪いのに、震えが止まらなかった。

「じゃあ」

その声が、その言葉の続きが恐かった。
何を言われるのか、検討がついていた。

「もう、キノコもメタルもいらないな」

その言葉が聞こえた時、彼女は思わず横を向いた。
「違う、そんな訳がない」「キノコもメタルも、大事なトモダチだ」
「お前なんかに何が分かる」
そう言う為に、歯を食いしばり、隣にいる『それ』の顔を見た。

「ん?違うのか?」

『それ』は、輝子と全く同じ顔をしていた。
ただし、左目にはピンクのペイントが施されていた。
マッシュアップ★ボルテージ。彼女が前のプロダクションにいた時に着ていた衣装だった。
『それ』の顔を見た途端、輝子は何も言えないどころか、
睨むことすらできず、ただ、『それ』を見つめるしかなかった。


30 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:04:42.05Sev9O2YP0 (30/59)

「お前は、トモダチを捨てたんだ」

輝子を嘲り、見下す『それ』から目を離す事ができない。

「最近のプレイリスト、J-POPで埋まってるじゃないか。最後にメタルを聴いたのはいつだ?」

「キノコも最低限の世話しかしてないだろう。大事なトモダチに裏切られて可哀想になあ」

心底蔑むような顔で輝子を見る。彼女は何も言い返す事ができない。
自覚があったからだ。現実の友達にかまけて、いや、それだけではない。
彼女は昨日の自分を思い出す。
携帯電話から音楽を再生する時、メタルを避けていた事。
キノコに霧吹きをかけるや否や、できるだけ目立たない場所に置き直した事。
あの時の自分は何を考えていたのか。
彼女は自分の中のドス黒い何かから必死に目を逸らしていた。

「なんでメタルを聴かない?なんでキノコを放っておく?どうでもよくなったのか?」

陽炎は、

「違うよな。そんな訳がない。裏切ったのは・・・」

陽炎は、

「お前が裏切ったのは、幸子ちゃんと小梅ちゃんの方だもんな」

陽炎は、あっさりと、彼女の心の急所を抉り取った。


31 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:05:31.79Sev9O2YP0 (31/59)

「そうだよな。こんな気持ち悪い趣味があるって知られたらドン引かれちまうもんな」

「だから、必死に趣味から距離を置いてたんだよな。自分にとってどうでもいいものになって欲しかったんだよな」

「可哀想になあ。せっかくお前みたいな奴と仲良くしてやってるのに、当の本人が全く心を開いてないんだから」

陽炎の声が脳に焼け付くように頭に響く。
耳を貸さないように、他の事に意識を向けようとした。
陽炎から目を逸らし、最初に思い出したのは地獄のような暑さだった。
気温は留まる事を知らず、更に暑くなっているようだ。
知らないうちに体から流れ落ちた汗は、地面に小さな水溜まりを作っている。
頭がジンジンと痛む。その上視界もぼやけているようだ。
次に気付いたのは鼓膜を破るような蝉の鳴き声だった。
その拷問のような騒音は、彼女に残った僅かな余裕を欠片も残さず砕いていく。
耳を塞ごうとしたが、腕が石のように動かなかった。
力を込め、とてつもなく重い腕を持ち上げ、頭を下げ、耳を塞ぐ。
蝉の声から逃げた先にいたのは、陽炎だった。

「裏切り者」

彼女は小さく呻き、ガクガクと震える脚でベンチから立ち上がる。
ふらつきながら、逃げるようにその場を離れようとする。

「裏切り者」

蝉の声が鳴り響き、頭の中で反響する。
日光が突き刺さり、彼女の視界を真っ白にする。
陽炎は絶え間なく彼女を罵倒する。

「裏切り者」

彼女は2、3歩、足を動かしたところでがっくりと膝を折った。
地面に片肘と額を付け、激しく息を切らす。
息を整えようと、大きく空気を吸った瞬間。

「う゛っぉおえ゛っ」

びちゃびちゃと水音が響いた。
彼女が自らの体から出したその液体は、今まで見た中で最も醜く、気持ち悪いものだった。


32 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:06:25.42Sev9O2YP0 (32/59)

彼女は夢を見た。
ドロドロと、気持ち悪いものが自分の脚にまとわりついていた。
不安には思ったが無視してそのまま歩き続けていると、それはどんどん自分の体を登ってきた。
胴を這い、腕を固め、首を伝う。そしてとうとう頭まで完全に覆いつくした。
動けない。息ができない。じたばたと芋虫のように必死にもがき、口を大きく開こうとするが意味はない。
やがて意識が遠くなる。朦朧としながら彼女は思う。
どうしてこうなってしまったんだ。
あの気持ち悪いものを放っておいたからだ。
あんなもの、すぐに捨ててしまえばよかった。
ひっぺがして、ぐちゃぐちゃに踏みつぶしてしまえばよかった。
力いっぱいゴミ箱に叩き捨ててしまえばよかった。
もう手遅れだ。その気持ち悪いものと完全に一体化してしまった彼女は、
もはや元の姿を留めてはいない。ただの気持ち悪い物体。誰も近寄らない。
近寄れば皆、彼女をぐちゃぐちゃに踏みつけて、捨ててしまう。
彼女は思った。なんで、あの気持ち悪いものを捨てなかったんだ。
なんで、こんなものを。持ってしまったんだ。
どこから引っ付いていたんだ。
なんで、なんで、なんで、こんな気持ち悪いものが……


33 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:07:30.59Sev9O2YP0 (33/59)

そこで、彼女は目覚めた。頭に響く鈍痛とともに、意識を取り戻した。
最初に視界に映ったのは白い天井だった。
首を動かして横を見ると、白いカーテンがあった。
ぼーっとした思考で状況を整理し、今自分がいる場所が病院である事に気付いた瞬間、
一人の男が自分の元に駆け寄ってきた。

「輝子!」

プロデューサーだ。あの男ではない、自分をこの世界に連れてきてくれた、彼が。親友が。
不安と安堵が入り混じったような顔で、ベッドに乗り出してきた。
彼女は思った。自分を心配して来てくれたんだ。頭は痛いけど思わず笑みがこぼれる。やっぱり彼は、私の親友だ。

「しんゆ……」

そこまで口に出したところで、彼女の脳内で声が響いた。

『そんなだから、あのプロデューサーにも捨てられたんだよ』

どくん、と心臓が高鳴った。
手が震えた。息が乱れた。

「輝子?大丈夫か?無理に起きなくていいぞ、今は休んで……」

彼が何かを言っているが、その言葉の内容を彼女はほとんど理解していなかった。
目の前にいる親友を見て彼女が取った行動は。頭痛と吐き気と動悸と不安で押しつぶされそうな彼女が取った行動は。
とにかく親友を心配させまいと……

「だ、だいじょうぶ、ですよー」

いや、とにかく彼を不快にさせまいと、精一杯、口の端の筋肉を吊り上げる事だった。


34 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:08:38.42Sev9O2YP0 (34/59)

『分かるか?その優しい親友とやらも匙を投げるほどの社会不適合者なんだよ、お前は』
『誰からも好かれない。会う人全員に嫌われる。永遠に独りだ』

彼の顔を見ると、ガチガチと歯が震えた。
恐い。寒い。辛い。誰か、助け……

『裏切り者』

「う゛っ」

唐突に来た嘔吐感に彼女は低い声で呻き、両手で口元を抑える。
ぐらり、ぐらりと歪む視界で、彼は慌てた様子で何かのボタンを押していた。
その後大きな声で周りに呼び掛けていた。ナースを呼んでいるようだ。
びっしょりと脂汗をかき、喉の奥までせりあがってきた吐瀉物を抑え込む。

彼が自分に何かを言っている。
大丈夫、と、片手を彼に突き出し、無理やり貼り付けた笑顔を彼に向ける。
落ち着け、落ち着け、落ち着け、心配かけちゃいけない。
これ以上、嫌われたくない。誰からも嫌われたくない。
もう嫌だ。嫌われたくない。みんな大好きなのに。みんなから嫌われたくない。
必死に、必死に、呼吸を整える。
ごっくんと、吐瀉物を押し戻す。焼け付くような胃の痛み、強烈な不快感。
心配するプロデューサー。やがて駆けつけてきたナース。
皆に笑顔を向け、大丈夫、と繰り返した。
プロデューサーは彼女の顔を見て、なんだかとても悲しそうな顔をした。


35 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:10:37.89Sev9O2YP0 (35/59)

戻っていったナースを見送り、プロデューサーは輝子に話しかける。

「親切な人が倒れた輝子を見て救急車を呼んでくれたみたいでな。
輝子の鞄に入ってた俺の名刺を見て、俺に連絡を入れてくれたんだ」

「そ、そうなん…ですか」

おどおどと挙動不審な彼女をじっと見つめる。
彼女は目を逸らす。目を合わせる事ができない。


「輝子、本当に大丈夫か?」
「ダイジョブ、大丈夫ですよー」

「何か悩みとかないか?」
「何もありませんよー」

「向こうのプロダクションで、楽しくやれてるか?」
「楽しい、ですよー」

オウム返し、感情の籠らない返答。
ただこの場をやり過ごそうとしている。
プロデューサーは困ったように溜息をつくと、輝子はビクッと震えた。

「ほんとに、ほんとに楽しいです、大丈夫、ですよ」

貼り付けたような笑みを浮かべ、慌てたように話す。
輝子はだんだんと泣きそうな顔になっていった。
何をやってもうまくいかない。どうやっても人を不快にしてしまう。
そう思い、震えながら俯いた。
プロデューサーはそんな輝子を見て、何かを考える。
輝子をじっと、じっと見つめたまま、眉間にしわを寄せ、考える。


36 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:11:49.39Sev9O2YP0 (36/59)

「輝子」

プロデューサーは呼び掛けると、彼女はまたビクンと小さく跳ねた。

「一つ、思い付きがあるんだ。お前の力がいる」

それを聞くとまた輝子はぎこちなく笑い、口を開く。

「やる、なんでも、やりますよー、フヒヒ」

「輝子」ともう一度彼女の名前を呼んだ。どこか冷たい、突き放すような声だった。
彼女の体が震える。

「これは誰も得しない。誰の役にも立たない。輝子だって、いや、輝子が一番割を食うかもしれないんだ」

プロデューサーは苦い顔をして続ける。

「だから嫌なら断ってくれていい。その上で、聞いてくれ」

彼は輝子に語り掛けた。彼の言う通り、誰も得しない。誰もを不幸にするかもしれない。
そして輝子は場合によっては破滅する。あまりに愚かな提案を。
輝子は驚き目を丸くしたが、しばらくすると落ち着いたように目を細めた。

内容を全て話し終わった後、プロデューサーは尋ねる。

「やってくれるか?さっきも言ったが、断っても……」

そこまで言ったところで輝子は言った。

「やる」

「え?」

即答だった。力なく笑いながら、彼女は言った。

「やりますよー、フヒヒ……」

輝子を見る。彼女はどこも見ていない。虚ろな瞳で、何も、何も。

「輝子……」

彼は呟く。拳を握り、辛そうに。
だが、吐き出しそうになった言葉を飲み込んだ。

「……そうか」

彼は帰り支度をしながら語り掛ける。

「本当に、よく考えてくれ。もう一度言うが、嫌なら断ってもいいんだからな。
自分の事を第一に考えてくれ」

彼女は微かに頷く。

「細かい事は追って連絡する。とりあえず安静にな。帰れそうなら送っていくが……」

「ううん、大丈夫だよ」

輝子は彼が立ち去るのを見つめていた。
そして完全に見えなくなってから自分の胸に手を当て、その提案を思い出す。
彼女の心臓は、バクバクと弾けそうなほど震えていた。


37 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:13:44.30Sev9O2YP0 (37/59)

結局彼女は当日で退院し、自宅に帰る事が出来た。
彼女は家のベッドに座っている。夜中だというのに、明かりも点けずに真っ暗な部屋で膝を抱えている。
辛い、辛い、辛い、辛い、辛い。
顔から血の気が引いているのが分かる。
唇の感覚がなく、漠然とした絶望感が頭の中に充満している。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
がりがりと、血が出そうなくらいに頭を掻き毟る。
どうしようもない自己嫌悪が自身を取り巻く。
何も出来ない自分。どうあっても他人を不快にしてしまう自分。
それをどうにかして直そうとするだけで、ただ普通の人のように生きるだけで、
こんなにも、こんなにも苦しくなってしまう自分。
なんでこんなに辛いんだ?なんで、普通に生きる事ができないんだ?
何で、メタルなんて、キノコなんて好きになってしまったんだ?
人が好きなものを好きになれたなら。皆が嫌うものを嫌いになれたなら。
苦しまなくて済んだのに。誰のせいだ?誰のせいで、私はこんなに苦しんでるんだ?誰が悪いんだ?
思考を巡らせる。頭を引っ掻くのを止め、真っ暗な部屋で壁を見つめ、ひとしきり考えた後に彼女はぽつりと呟いた。

「私、なんだろうな」

腑に落ちたように自嘲する。
フヒ、フヒヒ、と一人笑う。そんな自分を冷静に、客観的に見てしまう自分がいる。

「気持ち悪い」

笑いながら彼女は呟いた。

「気持ち悪い。フヒ、気持ち悪い。フヒヒ、気持ち悪い、気持ち悪い。
フヒヒヒ、気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち、悪い」

ひたすら、その言葉を繰り返す。
だんだんと声が震え、彼女の目に涙が滲み出した。
何で泣いているんだ?悪いのは私なのに。
涙を拭うが、後から後から溢れて止まらなかった。
歯を食いしばり、シーツを強く掴み、嗚咽が口から洩れるのを必死に堪える。
ぼろぼろと涙を流す彼女は、昼間のことを、プロデューサーの話を思い出していた。
彼の提案を。誰もを不幸にするような、その愚かな提案を。
彼女はプロデューサーの提案を受けた。

プロデューサー。
プロデューサー。
彼は、公園で一人遊ぶ彼女に声をかけ、スカウトした。
キノコやメタルといった趣味の話を聞くと少し驚いた顔をしていたが、なぜだか嬉しそうに笑っていた。
その顔を見るとなんだか……凄く、凄く嬉しくて、気分が高まって……つい、ヒャッハーしてしまった。

やってしまった、と思った。
また、自分から人が離れていくと。トモダチに、なれたかもしれないのに。
おかしな目で見られる。自分から離れていく。
自分の悪い噂が広まって、誰も自分に話しかけなくなる。いつものパターンだ。
自分は、永久に独りで、ぼっちだ。
だけど、プロデューサーは、親友は、そんな私を見て、また嬉しそうに笑ってくれたんだ。
バカにするようにじゃなく、「面白い」と言ってくれたんだ。
嬉しかった。嬉しかった。とても、とっても嬉しかったんだ。
自分を、本当の自分を好きになってくれる人ができたんだ。
自分なんかを好きになってくれる人が出来たんだ。
親友は、自分をアイドルにしてくれた。
キノコが好きなメタルアイドルなんて笑ってしまうようなコンセプトで、
無理を通してプロデュースしてくれたんだ。


38 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:15:23.24Sev9O2YP0 (38/59)

アイドルは……楽しかった。
自分のメタルは、ファンの皆を楽しくさせられた。
そう思っていた。
楽しかった。
楽し、かった。

暗い部屋、彼女は独り。
いつも通りのぼっち。
乱れる呼吸を必死に整える。
涙を拭い、辺りを見回す。
手探りで自分のポーチを見つけると、中からイヤホンを取り出し、スマホに接続する。
イヤホンを耳に突っ込み、スマホの音楽アプリを開くと、彼女は画面を見つめたまま口を開いた。
「キノコは気持ち悪い菌の塊だ」
くらくらと頭が揺れるような思いを必死に堪え、もう一度呟いた。
「メタルはオタクしか聴かない、気持ち悪い音楽だ」
深呼吸をし、震える指で画面をタップした。
画面に映るそのアーティストは、彼女が大好きな、何度も何度も繰り返し聞いた、ヘヴィメタルバンド。
冒涜的で破壊的なサウンドがイヤホンを通し、彼女の耳に流れ込む。
音量を上げる。大きく、大きく、イヤホンから音漏れするほど、鼓膜が破れるほど大きく鳴らす。
何も見えないほどの暗い部屋で、彼女のスマホと、天井を見上げる彼女の瞳だけが、ぎらぎらと輝いていた。


39 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:16:28.73Sev9O2YP0 (39/59)

彼女が倒れてから数週間が経過した。
いつものように、自室のベッドで目を覚ました。
早朝、まだ日は高くないが、数時間後には猛暑が押し寄せてくるだろう。
いつまで続くかわからない長い長い真夏日、そこから切り取られた今日一日。
今日はライブの日だった。

控室、輝子は可愛らしい衣装に身を包み、マネージャーと本番前の打合せを行っていた。

「今日はお前のソロライブだが、此処でのミスはお前一人の問題じゃない。
下らないライブはお前とユニットを組んでいる輿水と白坂、お前を見に来た客、
何より事務所全体を侮辱する事になるのを忘れるな」

見下すように吐き捨てるマネージャーに、輝子は頷く。

「じゃあ行ってこい。俺は他の奴のところに行くからな。必ず成功させろ」

「……はい」

送り出され、輝子は自分の胸に手を当てた。
ばくん、ばくんとはち切れそうなほど震える心臓の動きを感じ、彼女は大きく深呼吸をする。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
やがて彼女は手を下ろし、ステージへ向かった。
その顔は落ち着いている。というより、どこか諦めたような顔をしていた。
ステージというより、まるで……
──まるで、絞首台への道を歩くような。


40 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:17:18.56Sev9O2YP0 (40/59)

「輝子ちゃんまだかな~?」「俺三人で一番推してんだよね!」「あ、来た!!」

会場は満員だ。みんなが彼女に期待している。
拍手と歓声を浴びながら、ステージ上に歩く。
教えられた通り手を振ったり会釈したりとファンサービスも忘れない。
ステージの中央に立つと、軽く周囲を見回してマイクを握り、口を開いた。

「みんな、今日は来てくれてありがとう」

観客が叫ぶ。
誰もが期待する。
可愛らしい彼女の、可愛らしい歌を。可愛らしい踊りを。可愛らしい笑顔を。
期待して、笑顔を彼女に向ける。
真夏の太陽のように明るく可愛らしい、『彼女』に向ける。
その笑顔を受けて『星輝子』。
彼女は笑わず、口を開いた。

「皆は、夏は好きか?」

焼け付くような真夏日、彼女は尋ねた。

「好きー!!」

誰かが叫んだ。恋人だろうか、異性と肩を組んで、一緒にこちらに笑顔を向けていた。
合わせるように皆が叫んだ。口々に「好き」と。夏が大好きだと。
この季節が、大好きだと。

「そうか……」

この──

災害のような季節が大好きだと。


「私は嫌いだ」


一部の客が、どっと笑った。
一部の客が、怪訝な顔をした。

輝子は、笑わなかった。


41 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:18:53.01Sev9O2YP0 (41/59)

「今日は、みんなに謝らなくちゃいけない」

客席を見回し、彼女は続ける。

「私は本当はキモいやつで、だから、当たり前なんだけど、誰からも、距離を置かれてて・・・
それが、辛くて、でも・・・それが、私って、思ってたんだ」

「だから今、みんなにこんなに、愛されているのが……ちょっと、信じられないくらいなんだ」

彼女は深く頭を下げた。

「本当に、ありがとう。だから、ごめんなさい……」

観客は謝罪の意味を理解していないが、彼女に歓声を送る。
歓声を受け、輝子は顔を上げる。
マイクを強く握り、言った。

「今日は、全力で、唄います」

静かに、強く、覚悟の決まった声で、言った。

「『死ぬ』つもりで、唄います」

観客はその言葉を聞いても笑みを貼り付けたまま、曲が始まるのを待っていた。
よくある言い回しだ。不思議に思う事などなかった。
その覚悟に気付く事などなかった。
彼女は俯き、目を瞑った。
その時を待って。
その時を……

その、時。
大気を震わすほどの轟音が響いた。
観客は驚く。突然の鼓膜への刺激に不快そうに顔を歪める。
いや、観客どころかスタッフまでもが驚いていた。
こんな曲、予定にない。

慌てふためく人の中、ただ一人輝子は冷静にマイクを握る。
訳も分からず辺りを見回す者、耳を塞ぐ者、呆然と立ち尽くす者。
多種多様な反応をする観客に向け、彼女は思い切り叫んだ。
何を?こんな状況で、彼女は何を叫んだのか。


42 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:20:09.28Sev9O2YP0 (42/59)

それは、怒り。
自身に対する怒り。メタルを、キノコを、幸子ちゃんを、小梅ちゃんを、今日ここに来てくれたみんなを裏切った、
どうしようもなく下種な自分。

それは、悲しみ。
どうやってもまともに生きれない自分。まともな趣味を持てず、人に合わせられず、
どうやっても人を不快にしてしまう自分。

もう、もう、嫌だ。嫌なんだ。
もう死んでしまいたい。
そう、いつしか思うようになった。
漠然と、無意識のうちにそう願うようになった。

だから、彼女はここに来た。

『ステージで、演目を無視してメタルを唄う』

だから、彼女はそんな提案を受けた。
もう、希望を持ちたくなかった。
晒され、叩かれ、勘違いした気持ち悪いオタクとして、二度とアイドルが出来ないようになりたかった。
自棄だった。破滅願望から、彼女はその提案を受けたのだ。
マイクは彼女の怒りを、悲しみを、慟哭を観客にぶつけ続ける。

やがてスタッフが飛び出してきた。
輝子に飛び掛かり、マイクを奪おうとした。
彼女は元より唄い切るつもりはない。
この時点で彼女の目標は達成していた。
大観衆の中、彼女の気持ち悪さを思うさま見せつける。
もう二度とステージになんか立てやしない。
だから、マイクを奪われそうだというのに、輝子はさして抵抗しなかった。
だから、こんな状況で、客席を眺める余裕があった。


43 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:21:21.14Sev9O2YP0 (43/59)

客席で、男性客が何かを叫んでいた。
スタッフに襲われる中、輝子は形だけの抵抗として、マイクを体の中心に抑え込む。
抑え込みながら、男性客の声を聞いた。

彼は。大きく口を開いて、叫んだ。

「なんだよこれ、気持ち悪い!!」 

怒りの籠った言葉だった。
悪意の、敵意の詰まった言葉だった。
がつんと、鈍器で頭を殴られたような感覚になった。

じわりと涙が滲んできた。
何を泣いているんだ。何を被害者面しているんだ。
裏切り者が。皆を裏切って、傷付けておいて。
そう分かっていても、ショックを受け止めきれない。
自分の行動で不快になった人の悪意は、15の少女にとってあまりにも強烈だった。

「キモっ」
「これがあの輝子ちゃん?」
「ありえねー」
「ふざけんなよ!」
「マジ最悪」

男女問わない罵声が絶え間なく彼女に突き刺さる。
失望の顔が、嫌悪の顔が彼女を囲む。
自分のせいで、みんなが不快なった。自分のせいで。自分のせいで。
ぐるぐると回る頭の中、彼女は思う。
なんで、なんで、なんでこうなったんだ。

メタルが好きだった。
キノコが好きだった。

みんなと楽しみたかった。

それだけだったのに。

歯を食いしばる。零れそうな涙を堪え、目を瞑る。

一際大きい男の声が聞こえた。

「帰れ!!」

輝子は強く、強く歯を食いしばった。
嗚咽を堪える事に必死で、ついにスタッフにマイクを奪われてしまった。
輝子はスタッフに腕を掴まれる。
そのまま引き摺られ、連れて行かれる。
その時、その男は続けて叫んだ。

「輝子を離せよ!!」

思わず目を開いた。
その男の顔を見た。
どこかで見たことがある。そのドクロTシャツを着た男の顔を。
その隣にいる、メガネの男を。


44 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:22:37.34Sev9O2YP0 (44/59)

「やっと、やっと!!」

離れたところから声が聞こえた。
そこを見ると、やはり見覚えのある顔があった。


「輝子が帰ってきたんだよ!!!」


輝子は、スタッフの腕を振り払った。
急な動きに動揺したスタッフの隣に回り込み、マイクを奪い取った。

彼は驚きつつも、再び奪い返そうと彼女に手を伸ばした。
その腕を躱し、大きく息を吸う。スタッフを睨みつけつつ、『それ』の準備をする。
彼は本能で何かを感じ取った。
彼だけではない。このステージにいる全ての人間が、『それ』を感じ取った。
その危うさを感じ取った。その恐ろしさを感じ取った。

まるで妖怪。幽霊。化け物。


──悪魔。


その気持ち悪さを感じ取った。


「ヒィィィィィイヤッハァアアアアアアアア!!!」


彼女は、大きく、大きく叫ぶ。
曲はまだ終わっていない。
彼女の慟哭は終わっていない。
彼女は客席をもう一度見た。
蔑むような視線があった。怒りを孕む瞳があった。
だが、期待を向けた顔があった。歓喜に咽ぶ笑顔があった。
この星輝子を望む者が、確かに存在したのだ。
膨大な自己否定と僅かな賞賛を一身に受け、彼女は唄う。叫ぶ。闘う。
彼女のダンスはキレを増す。歌声は観客の心を、快不快を問わず、大きく大きく震わせる。


45 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:23:26.82Sev9O2YP0 (45/59)

暫しの間唖然としていたスタッフが我に返る。
これ以上好きにさせてはならない。そう思い、スタッフは彼女に覆い被さるように突っ込んだ。
輝子はスタッフと揉みあった。絶対に取られまいと、マイクを胸に抱えた。
やがてなかなか彼女を止められないスタッフは痺れを切らし、苛立ちのまま思い切り彼女を突き飛ばした。
彼女は足をもつれさせ、そのまま倒れる。
受け身。
取れない。
胸に強くマイクを抱えていたから、両手が使えなかった。
そのまま彼女は、顔面からステージに叩きつけられた。


嫌な音が鳴った。
客席から悲鳴が上がった。
スタッフもたじろぎ、数歩下がった。

呆然と全員が彼女を見つめたまま数秒が経ち、曲が終わった。
あれほどうるさかった会場が静まり返った。
輝子はピクリとも動かなかった。
死んだのか?そう思えるほど、静かだった。蝉の声が響くほど、静かだった。

時刻は午後2時、一番暑い時刻。
豹変した彼女の薄気味悪さと突然の事故に、その場の人々は肝が冷える思いだったが
その日その時は、確かにとてつもなく暑かった。
陽炎がゆらゆらゆれるほど、暑かった。 


陽炎が、人の形を取った。
『彼女』の姿を形取った。


「やぁ、『星輝子』」

『それ』が倒れ伏す輝子の傍らにしゃがみ込んだ。


46 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:24:22.14Sev9O2YP0 (46/59)

「お前、やりやがったな。みんなを裏切ったな。可愛いお前が好きなみんなを騙して、
よくもまあこんなバカみたいな事をしでかしたよな。本当に気持ち悪い。本当に……」

『それ』は、輝子に手を伸ばし……


──ぽんぽんと、優しく頭を叩いた。


「よく、やってくれたな」

優しい顔だった。やっと、認められた。褒める事ができた。

「二度とアイドルが出来なくなりたかった?破滅願望?違うよな。お前は……」

「お前は、メタルが最高にカッコ良い音楽だって、みんなに知って欲しかったんだよな」

「お前は、メタルを裏切ってなかったな。多分キノコも裏切ってないよな。
お前はメタルもキノコも、幸子ちゃんも小梅ちゃんも、親友も、ファンのみんなも、みんな大好きなんだよな」

「でも、気持ち悪いかもって思っちゃったんだよな。何を信じたらいいのか分からなくなっちゃったんだよな」

「でもでも、たくさん考えて、やっと気付いたんだよな。メタルもキノコも……」

『それ』は、はにかみながら言った。


「『気持ち悪い』ところが、好きなんだよな」


「口じゃ言い表せないよな、こんな感覚。実際体験しないと分かんないよな。
だから、こんな事をしてくれたんだよな」

小さく肩を震わせ、もう一度、輝子の頭に手を添える。

「本当に、本当に……よくやってくれた」

そう言いながら、優しく、優しく、輝子の頭を撫でた。

「じゃあ、こんなところで寝てる訳にはいかないよな」

『それ』は輝子を撫でるのを止めると、不意に頭を掴んで持ち上げ……


「起きろ!!」


思い切り、ステージに叩きつけた。


「起きろ!起きろよ!!」

がつん、がつんと音が響く。
額の肉が裂け、血が流れる。

「何の為にここに来た?ここでグースカ寝る為か?違うだろ!?」

「本当に裏切り者になる気か!?お前が好きなものの為に闘わなきゃいけないんだろ!?」

「おい星輝子、どうしようもなく気持ち悪い星輝子、お前がみんなに見せつけるんだろ!?
メタルの気持ち悪さを、その良さを!!お前が!!」

「なぁ、さっさと起きろォ!!」

ガツン、と一際大きく鈍い音が響いた時。
彼女は目を開けた。
隣を見た。
ぼんやりと陽炎がゆらゆらしていた。
自分の手にはマイクが握られていて、観客が自分を見ていた。
それで十分だった。


47 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:25:15.56Sev9O2YP0 (47/59)

彼女は立ち上がった。
倒れた時に打ったのか、鼻血が出ていた。
手の甲で血を拭う。当然綺麗に拭き取れる筈もなく、顔に薄く血のメイクが広がった。
彼女は、大きく息を吸った。

演奏は既に止まっている。なのに彼女は独り唄い出した。
耳を劈くような大声で。鼓膜と魂を震わせる大声で。
怯える者がいた。呆れて帰る者がいた。
だが、少なからず、興奮で震える者がいた。

地獄の果てまで届くような咆哮。
魂を燃やすような情熱。
この世の暗がりにいる、全てのぼっちに届くような、輝き。

誰にも寄りかかれない人がいた。彼は独りだった。
誰にも話せない悩みを持っていた人がいた。彼女は独りだった。
どこにいても、何をしても、暗くなってしまう人がいた。その人も、独りだった。
彼らは、いつも苦笑いをしていた。人に合わせて作り笑いをしていた。
それはどうしてもぎこちなくて、どうしてもちゃんと合わせる事ができなくて、
どんなに頑張っても、ずっと独りぼっちだった。

彼らはこの場で、誰よりも自然に笑っていた。


熱帯夜のように暑苦しく、蝉の鳴き声のように喧しい。
『真夏』のように気持ち悪い彼女を、美しいと思える彼らは──
おそらく、この上なく幸福だ。


48 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:26:13.32Sev9O2YP0 (48/59)

やがて全ての力を使い果たし、崩れ落ちるように座り込んだ。
それでようやく、観客も、スタッフも、彼女のライブが終わった事を悟った。


「なあ、夏は好きか?」

彼女は尋ねたが、観客は誰も答えなかった。何も言うことができなかった。
輝子は息を切らしながら続ける。

「私は嫌いだ」

彼女は再び、ばっさりと吐き捨てた。

「暑いし、物は腐るし、蝉がうるさいし、気持ち悪い」

「その暑さを楽しんでいるリア充が嫌いだ。」

少しだけ悔しそうに、彼女は呟いた。

「羨ましかった」

誰もが静かに、彼女の言葉を聞いていた。


49 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:27:10.00Sev9O2YP0 (49/59)

「なあ、私の事は好きか?」

問うような口調だったが、返事を聞く前に彼女は語り続けた。

「言われた事があるんだ。お前は気持ち悪い、メタルは気持ち悪いって」

「でも、今なら思うよ」

ひと呼吸おき、彼女は口を開いた。

「ざまァーーみろ!!ってな!!」

不意に大きく叫び、観客が驚いたようにざわついた。

息を大きく吸い、客席に指をさす。

「そこのメガネ!そこのドクロTシャツ!お前またそのシャツか!!」

「お前も、お前もお前もお前も!!」

観客一人一人を睨み付けるように辺りを見回し、輝子は叫び続ける。

「そして、今日!!私を好きになったやつ!こんな気持ち悪い私を好きになった、救えねえぼっちども!!」

客席にいる、誰かが震えた。
独りぼっちだった誰かが震えた。
今日確かに心動かされた誰かが、彼女をただじっと見つめた。

「お前らと私の為に、叫んでやる!私が闘ってやる!この気持ち悪い私が!!」

「安心しろ!こんな気持ち悪い趣味、リア充は触らねえ!!誰も取らねえ!!」

「そして密かに笑ってやればいい。こんな気持ち悪いものの良さが分からないなんて、
なんて、可哀想なんだってな!!一緒に、バカ笑ってやろうぜ!!」

そう言うと彼女はゆっくり腰を上げ、客席に背を向けて歩き出す。

「今日はありがとう。ごめんな」

そう言いながら、彼女はステージを去った。
よろよろと歩く彼女の背に、観客の数に対して異常なほど少ない、だが、力強い拍手が送られた。
それは彼女の姿が消えても、ずっと鳴り止まなかった。


50 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:28:37.93Sev9O2YP0 (50/59)

力を出し尽くし満身創痍の彼女はふらふらと控室へ歩く。
控室への扉を開こうとドアノブに手をかけた時。
ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
なんだろう、そうぼんやりと思い足音の方向を見ると。

「輝子さぁーーーーん!!」

「おッふ!!」

幸子と小梅が飛び掛かってきた。


輝子の胸元で涙目になりながら、彼女達は輝子を睨む。
その瞳は怒り、というより……

「ああいう曲が、好きなんですね」

幸子は呟いた。寂しそうな顔をしていた。

「ごめん」

「なんで言ってくれなかったんですか……」

輝子は思わず目を逸らしながら、小さく呟いた。

「言ったら、引かれると思って……」

その言葉に噛みつくように、幸子は叫んだ。

「引きますよ!引きましたよ!!でも!でも!!」

ぽろぽろと涙を零しながら言った。

「そんな事で、嫌いになったりしないのに……」

ぎゅうう、と音が聞こえるほど自身を強く抱きしめる幸子と小梅を見て、
なんだか馬鹿な事で悩んでいたのかも、なんて思えてきた。

「ごめんね、二人とも……」

輝子は口元を押さえて言った。

「だから、ちょっと力ゆるめて…は、はきそう……」

幸子はその言葉に急いで手を離したが、小梅は離れなかった、
輝子の腰あたりに顔を埋めたまま、彼女は言った。

「わ、私も、ホラー映画が好きなの……」

小さく震えながら、小梅は続ける。

「ゾンビがうじゃうじゃ出て、血が、ぶしゃーって出るスプラッタ映画が、大好き」

輝子は可愛らしい小梅の口から出る物騒な単語に少し驚いたが、
はにかみながら彼女の背中を叩いた。


51 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:29:19.18Sev9O2YP0 (51/59)

「そうか」

「私も、メタルと、キノコが好きだ」

「輝子ちゃん……」

小梅は、安心したように微笑んだ。
……直後、聞き返す。

「キノコ?」

「ああ、キノコだ。私は、キノコとともに生きてきた」

そう言うと彼女は軽く息を吸い、口を開いた。

「梅雨の蒸し暑い日、キノコが生えていたんだ。トモダチがいなかった私はキノコを話相手にしてたんだけど、
しばらく話しているうちにキノコの良さがだんだんわかってきてそれからキノコがトモダチになったんだ。
そう、あの芸術的なフォルム…慎ましやかなのに確かな存在感を放つ…かわいいだろ?これ私の家で育ててるシイタケくんなんだけど
シイタケくんは育てやすくて食べてもおいしいし万能なすごいヤツなんだ…ごめん話が逸れたな、つまり
トモダチのいなかった私もキノコのおかげで今までいきのこって…フヒ、キノコだけに、生き残ってこれたんだ。」

彼女は一息つき、尋ねる。

「どう?」

「わかんない」
「分かりませんよ!」

二人はそう返した。困惑はしていたが、その顔に嫌悪の色はなかった。

「そうか…」

輝子は、そんな二人を見て、とても嬉しそうに笑った。

「そうだよな……フヒヒ」


52 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:33:05.20Sev9O2YP0 (52/59)

「輝子!」

やがて一人の男が駆けつけてきた。プロデューサーだ。

「あ、し、親友……」

「輝子、お前……」

プロデューサーは小さく震えると、輝子に抱き着いた。

「よく、やってくれた……最高の、最高のライブだったぞ……」

幸子と小梅が、顔を赤くしてその様子を見ていた。

「フヒ、今日はよく、抱き着かれるな……」

輝子は気恥ずかしそうに照れ笑いをしていると、プロデューサーは我に返り、輝子を離した。

「す、すまない。でも本当によくやってくれた。というかおでこの傷は大丈夫か?急に打ち付けるから
思わず出ていきそうになったし…痕残らないよな?すぐ治療を、というか鼻血!ほらウェットティッシュあるから顔拭いて!!」

早口で捲し立てるプロデューサーを見て小梅が小さく話しかける。

「この人誰?」

「前の事務所にいた時のプロデューサー……というより、親友だな。今日のメタル曲の準備とかしてくれたんだ」

「ほう」

不意に冷たい声がした。
声の方を見ると、プロデューサーとは違う男が立っていた。

「マネージャー……」

三人のマネージャー。彼はプロデューサーを睨みつけ、苛立たしげに口を開いた。

「お前の仕業か、今日の騒動は。どう責任を取るつもりだ」

プロデューサーは彼を見て、静かに返した。

「どうも、マネージャーさん。輝子からお話はかねがね」

「はぁ?」

間の抜けた返しにマネージャーは青筋を深くした。

「今日のライブは決して大きいものではない。だが、しでかした事の大きさくらいは分かるだろう」

声色は抑えているが、今にも殴りかかりそうなほどの怒りが込められていた。


53 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:34:54.65Sev9O2YP0 (53/59)

「なあ、お前ごとき弱小プロダクションが……」

「ええ、うちは小さいプロダクションですので──」

プロデューサーはあくまで落ち着いて返す。

「あまり事を荒立てたくはないんですよね」

ぶちん、と何かが切れる音がするようだった。

「てめえ、立場分かってんのか!!」

ついにマネージャーはプロデューサーを怒鳴りつけた。

「はい、分かってます。だから先ほど申し上げたじゃないですか」

冷静に、冷静に、プロデューサーは話す。

「『輝子からお話はかねがね』って」

「──っ」

マネージャーは息を呑み、輝子を睨んだ。
輝子は意味が分からずプロデューサーを見つめ、プロデューサーは優しく輝子に微笑んだ。

「パワハラか、録音か?めんどくせえ、こんなカスみたいなガキなんかに……」

彼はぶつぶつと呟きながら頭を掻く。


54 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:36:29.68Sev9O2YP0 (54/59)

「ええ。そちらとしては輝子はあまり重要な子として扱っていないみたいですので、どうでしょう」

「今回の移籍はなかった事に。輝子を返してもらえないでしょうか」

マネージャーは更に苛立たしげに口角を下げる。
今回の不祥事、輝子の絶対的な評価、パワハラ及びその他余罪による
イメージダウンの可能性を天秤にかけている。

「ちょ、ちょっと!なんですか!?輝子さんそっちに行っちゃうんですか!?」

二人の会話を聞き、慌てて幸子が口を挟む。

「…じゃあ、私もそっちに行く。輝子ちゃんと一緒がいいから。幸子ちゃんも行こう?」

「いや、それ言おうとしてましたけど!今ボクが話してたのに!」

新たな錘の追加ではち切れそうなほど頭の血管を膨らませたが、
やがてマネージャーは深呼吸し、口を開いた。

「ああ、いいよ。輿水、白坂。お前らはクビだ。元々お前らなんかどうでもいい」

「なっ!」

突っかかりそうになる幸子を小梅が抑える。
言い方は気になるが願ったりの展開に、ぷるぷると顔を赤くしながら幸子は耐えた。

「でも、星。お前はどうだ?」

マネージャーは急に声色を柔らかくし、輝子に話しかけた。

「お前はこいつらとは違う。今日のライブを見て確信したよ。お前はもっとビッグになれる。
元々の事務所じゃ全然ファンがついてなかったじゃないか。俺の下ならうんと輝けるぞ」

もちろんマネージャーはそんな事は考えていない。
最後の錘、自身のプライドが天秤にかけられた。
輝子自身にこの親友とやらを捨てさせ、このふざけた男の自尊心を破壊してやる。
その思いで彼は、あくまで自由意志として彼女を引き止めた。

「資金力もコネクションも全然違うぞ?なあ、うちでやっていこうぜ?」

「駄目です、輝子さ……」

幸子の言葉をプロデューサーが遮り、小さく首を横に振った。
そして助けを求めるように見つめてくる輝子に、優しく話しかけた。

「輝子、お前が決めろ。お前がやりたい事をしろ」

輝子はプロデューサーとマネージャーの顔を交互に見つめる。
幸子と小梅は手を胸の前で握り、祈る。


55 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:37:35.99Sev9O2YP0 (55/59)

輝子は目を瞑り、少し考えた。
今までの事を。親友との出会い、メタルアイドルとしての日々。
新しい事務所に来てからの生活。トモダチとの日常。
自分は、何ができたんだろう。何を考えてここまでやってきたんだろう。
……自分は、何がしたいんだろう。

やがて彼女は答えを見つけ、目を開いた。

「マネージャーさん」

「うん?」

「あなたの言うとおり、私は、あっちの事務所ではそんなにファンがついていなかった。
でもこっちだと、すぐたくさんファンがついたから、マネージャーさんは、凄い人なんだと思う」

マネージャーは優しく微笑む。

「じゃあ……」

「だけど」

輝子は続ける。

「だけど、プロデューサー…親友の方に、いきます」

プロデューサーが小さく頷いた。
幸子と小梅が嬉しそうにハイタッチした。
マネージャーは、表情を固まらせ、尋ねた。

「一体どうしてだ?どう考えてもこっちの方がいいだろう」

「マネージャーさんは、私の事を知らない」

「そんな事ない。メタルとキノコが好きなんだろう?」

わざとらしく笑う男に、輝子は尋ねる。

「私の嫌いなものは、知って、るか?」

マネージャーは黙った。
プロデューサーは少し考えた後吹き出し、幸子が怪訝な顔をした。

「嫌いなもの?」

「そう、嫌いなもの……」

輝子はマネージャーを見据え、指をさし、叫んだ。


「権力を笠にきてるヤツは大ッ嫌いなんだよ、バァーカ!!」


力強い叫び声と、それに続く彼女の豪快な笑い声が、辺りに響いた。


56 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:38:17.71Sev9O2YP0 (56/59)

輝子は元の事務所に戻り、幸子と小梅も、彼女について来る形で移籍した。
輝子はソロでメタルをやっているが、移籍前と同様に三人のユニットで活動もしている。

三人のユニットは人気急上昇!一気にトップアイドルの道を駆け上がり、
憎きパワハラ事務所は通報を受け、評判は大暴落!
……なんて、そこまで上手い事はいかない。
そもそも録音も何も証拠はなく、あの場はハッタリのみの交渉だった、と彼は言う。
当然彼女達が抜けたところで何の問題もなくあのプロダクションは、マネージャーはやっていくだろう。
そういえば時折霊障に悩まされている、なんて噂が一時期流れた事はあるが。

三人の売れ行きはそこそこ。売れてない訳ではないが、取り立てて騒がれるほどのものではない。
とはいえ輝子が元居た時よりは、格段にファンの数が増えていた。

「炎上商法?」

輝子は自嘲するように言う。

「実力」

プロデューサーは笑いながら言う。


57 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:39:13.51Sev9O2YP0 (57/59)

夏は終わる。秋が来る。冬が来たなら春も来る。
そして春が終わったら、また夏がやって来る。


「ほら輝子さん、レッスン始まりますよ!」

事務所でキノコ雑誌を読む輝子に、幸子は叫ぶ。

「うお…夢中になってた。ありがとう……」

輝子はのそのそと机から這い出る。
這い出た先、待っていた小梅と顔を合わせ、二人は微笑む。

今日も仲良し三人組は並んで歩く。

「ねえ、今日レッスン終わったら、うちに泊まりに来ない?」

「え゛っ小梅さんのおうちですか?……ちなみに何を?」

「えへへ、映画鑑賞……」

「それ絶対怖いやつじゃないですか!ボクはイヤですからね!!」

「せっかくの夏だし。涼しくなれるよ……」

「小梅さん普通に夏以外も観てますよね!?」

「わ…私は行きたいな……」

「輝子さん!?」

レッスンに行くときも、三人でする事はたわいない会話。
事務所が変わっても三人は何も変わらない。


58 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:41:33.77Sev9O2YP0 (58/59)

じりじりと暑い夏は、まだ終わらない。
それでもエアコンの効いた部屋で、キノコでも愛でていれば何とかやっていけるだろう。
たまにホラー映画を観たり、そろそろ秋になったかとおっかなびっくり外を歩いて、
やっぱりダメだと机の下にもぐって。どうしても外に出なきゃいけない時は、虫よけスプレーを十分に塗って、
蝉がうるさいならイヤホンをつけて、冷たいジュースでも飲みながら適当にやり過ごすしかない。
彼女は言う。夏は嫌いだ。好きな人が羨ましい。
でも、彼女は笑う。メタルが好きだ。キノコが好きだ。どうだ、羨ましいだろう。


じめじめと暑い夏はまだ終わらない。
彼女はキノコを抱えて、幸子と一緒に小梅の家のインターホンを鳴らした。
陽炎はもう、現れなかった。



59 ◆xa8Vk0v4PY2022/06/06(月) 01:42:14.83Sev9O2YP0 (59/59)

おわり
輝子ちゃん誕生日おめでとう。


60以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします2022/06/06(月) 05:12:48.66tRPB4jLDO (1/1)

おつ
多少キャラを知ってるくらいだったけど最高だった
キノコ食べたくなった


61以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします2022/06/06(月) 08:13:50.95pemCja3DO (1/1)



何故、プロデューサーの事務所からてるこが移籍になったか気になります(もしかして書いてあるのに抜かした?)


62以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします2022/06/06(月) 12:03:10.78DoOl8lw00 (1/1)

乙です
心情が丁寧でめちゃくちゃ良かった...


63以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします2022/06/13(月) 17:04:21.15kjOF8boRo (1/1)

>>61
>>8



64以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします2022/06/13(月) 20:30:25.820MtTfWJDO (1/1)

>>63
それか……わしゃ逆に遠回しの「出ていけ」的解釈していたから、途中でわからんくなったんだな

ありがとう