1 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 14:30:34.98OOMGAyot0 (1/29)

男(俺にはある特技があった)

男(それは、人の能力を盗む事だ)

男(全神経を研ぎ澄ませて相手を注意深く観察する)

男(そうする事で、相手の能力のポイントや流れを理解し、模倣する事が出来た)

男(だが、俺にはコンプレックスがある)

男(それは、何かで一番を取った事が無いと言う事)

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2 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 14:48:18.76OOMGAyot0 (2/29)

男(よく人は俺を要領が良いと褒めてくる)

男(だが、俺はただ人の猿真似をしているだけだ)

男(どんなに努力した所で、本当の才能って奴には勝てた試しが無い)

男(所詮俺は劣化の模倣品なんだ)

男(『覚えが早いね』……その言葉を投げられる度に、どうしようもない苛立ちに苛まれる)

男(一位になりたい。本物になりたい)

男(そんな苦しみを育てながら、俺は今日もみっともなく生きている)


3 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 14:50:21.59OOMGAyot0 (3/29)

男(町を歩く奴らは、どいつもこいつも平然と歩いている)

男(まるで自分には何の悩みも無いとでも言う風に)

男(どうしてそんなに堂々としていられる、お前たちはそんなに有能なのか)

男(骨の髄まで怒りが走る。世の中は不平等だ)

男(俺に力を寄越せ。どうして俺だけが苦しまないといけない)

男(道端に捨てられている空き缶を、俺は力任せに蹴り飛ばす)

男(圧倒的な才が欲しい。悪魔ですら黙らせるほどの)



4 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 14:57:00.28OOMGAyot0 (4/29)

男(つまらない風景。どれもこれも平凡だ)

男(町を歩いていると、公園のベンチに座って空を眺めている老人が目についた)

男(随分と暇なんだろうな)

男(俺はそいつを一瞥し、無関心に歩みを進める)

男「!」

男(うっかり目が合ってしまった)

男(老人は何も言わず、ただ穏やかな表情で笑みを浮かべた)

男「……ッ!」

男(どうして人にそんな表情を向ける事が出来る)ギリ

男(見下していた俺の器の狭さが、浮き彫りにされてしまったようで)

男(俺は決まりが悪くなり、なんとも言えず足早に立ち去った)


5 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 14:59:22.13OOMGAyot0 (5/29)

男(俺は町を彷徨う)

男(その姿は海月に似ている)

男(だが、俺は奴らとは違う)

男(海月は泳ぐ事が出来ない。自分を持たずにただ流れに任せて海を揺蕩う)

男(俺は自分で進む事が出来る。俺の行き先は俺のものだ)

男(俺は――)

男「……馬鹿らしい」

男(海月にすら必死に張り合う自分の滑稽さに気付き、俺は舌打ちをする)

男(苦しい。苦しい)

男(息が詰まる。どうすれば楽に生きられるんだろう)



6 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:03:52.07OOMGAyot0 (6/29)

男「……ん」クン

男(何処からともなく流れてきた珈琲の香りが、ふと鼻をくすぐった)

男(かなり遠くから来ているらしい、ほんの微かな香りだ)

男(それは、俺が今まで感じた事の無い香りだった)

男(たかが珈琲ごときに、心を奪われて立ち止まったのは初めての事だった)

男「これは……一体何処から」

男(俺の頭は、その出所を突き止める事のみに支配されていた)

男(犬のように意識を鼻に集中させ、俺はゆっくりと歩きだした)



7 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:05:50.55OOMGAyot0 (7/29)

男「こんな所に店が……」

【珈琲 芍薬】

男(町から少し外れた、長い坂道を上った所)

男(目の前には木々が広がり、目ぼしい物は他に見当たらない)

男(そんな辺鄙な場所に、その店は立っていた)

男(よくもまあ先ほどの場所から気が付いたものだ)

男(こんな立地じゃ、対して客も入らないだろうに)

男(だが……)

男(扉を開ける前から漂う、この素晴らしい香り)

男(その香りの中には、確かな才を感じられる)

男(俺はその香りに負けないように、心の重心をどしりと下げて扉を開けた)


8 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:10:28.94OOMGAyot0 (8/29)

りん りん りん

男(ガラス製のドアベルの音が、静やかに空間に染み渡る)

女「いらっしゃいませ」ニコ

男「一人です」

男(店の中は、四人用、二人用、一人用の席がそれぞれ二つずつ配置されている)

男(壁には年季の入った時計が掛けられており、珈琲ミルやランプが飾られている)

男(俺は壁際の一人席に座った)

男(木製の机は艶があり、何とも落ち着く)

男(机には金魚鉢のような、ガラスの花器が飾られている)

男(活けられているのは薄紫の紫陽花だ。水の中には赤や青のビー玉が入っている)

男(BGMのようなものは無く、木々のさらさらとした音のみが広がっている)

男(何だろう……安心感がある)

女「お決まりでしたらお呼び下さいね」

男「あ……では本日の珈琲で」

女「かしこまりました」

男(席からキッチンを盗み見る事が出来る)

男(店員はあの女一人だけなのだろうか?)

男(俺と同じくらいの年だ。まだ若いのに一人で店を回しているのか)

女「本日の豆は、「向日葵」ブレンドです」

男「!」

男(見ているのがバレた⁉ こちらを向いていないのに?)

男(偶然か? いや、明らかに俺の視線に呼応していた)

男(俺は窃盗がバレたような気持ちになり、逃げるようにコップの水を飲む)

男(あ……レモンの香りがする。旨い)


9 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:12:58.75OOMGAyot0 (9/29)

ざっ

男(店に漂う香りが強くなった。手動の珈琲ミルに豆が入れられたからだ)

しゃらららら……

男「……⁉」

男(な、な……何が起きている⁉)

男(ま、まず音だ! 豆を挽く音が違う!)

男(がりがりとした耳障りな音では無く、まるで砂時計の砂が流れていくような)

男(あまりにも純粋で繊細で、清潔な音だった。こんな美しい音は聞いた事が無い)

ふわ……

男「え……あ……!」

男(どうなっている⁉ 理解が出来ない!)

男(そのままを言葉にするならば)

男(豆を挽く音が、香りが、色を纏っている!)

男(鮮やかな赤が広がり、青や緑が混ざって渦を描いていく)

男(実際に色は見えないが、確実にその色合いを感じる事が出来る)

男(何が起こっているんだ⁉)


10 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:16:49.51OOMGAyot0 (10/29)

男(彼女はそうして出来た粉を、紙のフィルターを広げてドリッパーにセットする)

男(専用の珈琲ケトルから、細い細い湯を満遍なく注いでいく)

男(遠目からなのでよく見えないが、粉が膨れ上がっているようだ。一度蒸らしているのだろうか)

男(少し待って蒸らし終わったそれに、再び湯を注ぎ始める)

男(もしかして、俺はとんでもない才を目にしているのかもしれない)

男(たかが珈琲ごときに、こんなにも緊張して待つ事は初めてだ……!)ゴク



11 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:20:10.03OOMGAyot0 (11/29)

女「お待たせしました。どうぞごゆっくり」

男(飴色の茶托の上には、有田焼か何かの和風のコーヒーカップ)

男(その落ち着いた色合いのカップからは、信じられないほど鮮やかな虹色が溢れていた)

男(一体どうなっているんだ。これは珈琲なのか?)

男(俺は恐る恐る、それを口に含む)

男(あ……)

男「……旨い!」

女「良かった」

男(穏やかな深みを湛えながら、舌を刺すように鋭い苦み)

男(だが、それはしつこく残る事なく、さっと消える。素晴らしい味のキレだ)

男(むせ返りそうな程に香ばしいのに、その香りの中にはかすかな甘みがある)

男(衝撃のあまり、俺は我を忘れてその珈琲の味を感じ取っていた)

女「いかがでしょうか。軽やかな味わいとしっかりした苦さの、夏向けのブレンドです」

男「……こんなにも珈琲を旨いと思ったのは初めてです」

女「ありがとうございます」ニコ

男(何と言えば良いのか、身体が明るくなった気がする)

男(信じられないほど旨かった……)

男「ご馳走様でした……」

男(俺は半分夢心地のまま、会計を済ませる)

女「ありがとうございました。暑いのでお気をつけて」

男「……」

男「……また、来ます」

男(それが「芍薬」との出会いだった)



12 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:21:55.36OOMGAyot0 (12/29)



男(暑い)

男(茹だるような暑さとはこの事だろう。自分の息すらも熱風に感じる)

男(狂ったように鳴く蝉が耳障りだ)

男(こうもしつこく喚いて惨めにならないのだろうか)

男(あまりに必死で、不毛な喚き声だ)

男(……)

男(分かっている。行動すらせずに見下している俺の方が惨めなんだ)

男(俺は蝉以下の存在だ)

男(そんな自己嫌悪を振り払うように、俺は足を進める)

男(嫌な事も、考えなければ何も無い。俺は自由でいられるはず)

男(「芍薬」はすぐそこだ)





13 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:23:09.87OOMGAyot0 (13/29)

ミーンミンミンミンミン……

男(暑い)

男(茹だるような暑さとはこの事だろう。自分の息すらも熱風に感じる)

男(狂ったように鳴く蝉が耳障りだ)

男(こうもしつこく喚いて惨めにならないのだろうか)

男(あまりに必死で、不毛な喚き声だ)

男(……)

男(分かっている。行動すらせずに見下している俺の方が惨めなんだ)

男(俺は蝉以下の存在だ)

男(そんな自己嫌悪を振り払うように、俺は足を進める)

男(嫌な事も、考えなければ何も無い。俺は自由でいられるはず)

男(「芍薬」はすぐそこだ)



14 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:29:04.20OOMGAyot0 (14/29)

りん りん りん

女「いらっしゃいませ。暑かったでしょう」

男「どうも」

男(差し出された手ぬぐいは、きりっと冷やされていた)

男(熱を帯びた身体が一気に冷やされていく)

男(店の中には、一人の老人が座っていた。俺はそれを見てどきりとする)

男(以前、空を見ていた老人だ)

男(俺は目を合わせず、メニューを開く)

男(「芍薬」は、その日のブレンドとアイスの二つしか飲み物が無い)

男(もっと増やせばいいのに、それはこだわりと言う奴なんだろうか)

男「アイスで」

女「はい。少々お待ち下さい」

男(老人は珈琲を飲みながら、何かの本を読んでいる)

しゃららららら……

男(この音だ。この音を聴きにやってきたんだ)

男(色鮮やかな音が店内に広がる)

男(美しい。心が浄化されるようだ)

男(そうだ、あの老人には見えているのか?)チラ

老人「……」

男(……穏やかな表情をしている。目線は本に向いたままだ)

男(見えていないのか……? 分からない。どちらとも取れる)

男(キッチンに目線を戻すと、コーヒーカップにたっぷりの氷が入れられていた)

男(茶色い氷だ。まさか珈琲を凍らせているのだろうか)

女「……」

男(あの店主の淹れる様は、見ていて飽きない)

男(それほどまでに美しく無駄が無い。まるで雲が流れていくようだ)

男(俺は意識を集中する。どんな音も逃さないように)

ちりちりちり……

男(熱い珈琲が、氷にぶつかって急速に冷えていく)

男(ちりちりとした氷が溶けていく音の中に、時折ぱきっとそれが割れる音がする)

男(うざったい外の暑さを砕くような清涼音だ)

男(ああ)

男(此処は落ち着く)



15 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:34:24.40OOMGAyot0 (15/29)

女「お待たせしました」

男(運ばれたカップからは、やはり虹色が溢れていた。まるで冷気のようだ)

男(! カップまで冷たい。わざわざ冷やしていたのか)

男「……」ゴク

男「……おお、旨い」

男(以前の鋭い苦みとはまた違う。ほどよい苦みが口に広がる)

男(柔らかな酸味を感じる。それらがきりっと冷やされていて喉が引き締まる)

男(旨い……)

老人「いやあ、旨いねえ。若いのに大した腕前だ」

女「いえ、そんな……ありがとうございます」

老人「この珈琲から虹色を感じるよ。私もボケてしまったのかな」

女「お気付きになられましたか、人によって感じられる方とそうでない方がいらっしゃいます」

老人「不思議な珈琲だねえ」

男(! やはり、他の人にも虹色が感じられるのか)

老人「あんたのおかげでリラックス出来ますよ。ありがとうなあ」

女「そう言って頂けると報われます」

男(優しい会話)

男(いつもなら心の中で突っかかっていただろう)

男(だが、今はそんな気になれなかった)

男(……何故だろう?)



16 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:36:48.55OOMGAyot0 (16/29)

老人「へえ、まるでペンが生きているみたいだ」

男「いや、ただの下らないペン回しですよ」ヒュンヒュン

老人「そんな事は無いよ、指の間を駆け巡るなんて見た事無い。他にも出来るのかな?」

男「ええ、では……」

男(俺はいつしか、「芍薬」の常連となっていた)

男(あの老人ともすっかり顔見知りになり、少しばかりの会話をする事もあった)

男(俺の中で、何かが変わり始めている)

男(人の声が、空の色が、歩く音が以前とは違うように感じられる)

男(不思議と、あの店主の才を盗もうとは思わなかった)

男(そんな事を考える自分を、何処か恥ずかしく感じていた)

男(考えて見れば、俺はあの店主の事を何も知らない)

男(どうやって虹色の珈琲を淹れられるようになったんだろう)

男(いつしか、俺は珈琲よりも彼女に興味を持っていた)



17 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:42:40.85OOMGAyot0 (17/29)

さらさらさら……

男(やはり、この店は静かで良い)

男(木々の葉の音が何とも心地良い。清涼な気分にさせてくれる)

男「……旨い」

男(今日の珈琲はナッツのような香りがする。素晴らしい香りに特化した一杯だ)

女「あら、その本私も読んだ事があります」

老人「有名な作品だからねえ。何度も読み返してしまうよ」

老人「名作は良いものだ。誰もが一度は読むべき価値がある」

男(その言葉に胸がちくりと痛む。俺もそんな事を言われてみたい)

女「親友が最後に死んでしまうのが悲しいんですよね」

老人「ああ、「本当の幸せ」とは、何なんだろうなあ」

女「自分が死ぬことすらいとわない他者への思いやり……でしょうか」

男「……そんなの、綺麗事でしょう。自分が死んだらそれで全部おしまいだ」

男「自分が救われなければ、全部が無駄じゃないですか」

老人「ううむ。分からん。分からんなあ」

老人「けれども、物語の彼にとってはそれが幸せなんだろう」

男(理解に苦しむ。俺の人生は俺の物だ)

男(自分が犠牲になって人を救ったとして、俺は満足出来ない)

男(ただの綺麗事だけで、人は生きていられないんだよ)

老人「私は身体に不自由無く生きていられる、それだけで幸せだなあ」

女「ええ、とても幸せな事ですね」

男(……)

老人「君達にとっての幸せとは、何だい?」

男「……!」

男(答える事が出来なかった)

女「私は……私の作った珈琲で笑顔になって貰えれば、それで」

老人「ほほう」

男(違和感があった。以前からも時々気になっていた事だ)

男(女さんの笑顔は、何処か壁がある)

男(その場しのぎと言うか、嘘はついていないのだろうが……)

男(後ろめたさ、のような何かを感じる)


18 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:44:57.20OOMGAyot0 (18/29)

むわっ……

男(暑苦しい)

男(何とも不愉快な熱帯夜だ。一向に眠気がやってこない)

男(老人さんの話が頭から離れない)

男(俺にとっての幸せとは、何なのだろう)

男(それが見つかれば、俺は楽になれるのだろうか)

男(俺は何を求めているんだ?)

男(重々しい汗が首筋を流れる。こんな事を考えているのも夜のせいだ)

男(さっさと眠ってしまおう。眠っている間は楽でいられる)


19 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:46:22.98OOMGAyot0 (19/29)

男「な……!」

男(いつもの「芍薬」の扉には、しばらく休業するとの知らせがあった)

男(何故だ、どうして突然……)

男「……落ち着け、たかが珈琲だ」

男(そうだ、別に何処でだって飲める)

男(何を残念がっている。期待するだけ無駄だと分かっていただろう)


20 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:47:47.99OOMGAyot0 (20/29)

男「……」

男(ふと目についた適当な喫茶店で飲んだ珈琲は、大した事の無い味だった)

男(どうにも居心地が悪い。一人で居るのが場違いのようだ)

男(店員の態度? 店の配置?)

男(どれもこれも違う、いや――)

男「……ああ」

男(認めよう。俺はあの店が好きだったんだ)

男(そう思った瞬間、とんでもない虚無感に襲われる)

男(もう「芍薬」の扉を開ける事は無いのか)

男(俺はしょうもない珈琲を飲み干した。味なんて分からなかった)


21 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:49:40.96OOMGAyot0 (21/29)

男(それ以来、俺は以前のような生活を送っていた)

男(下らない事ばかりが溢れている。何をしても満たされない)

男(そう思いながらも、縋るように「芍薬」の前まで歩いている)

男(今日こそは、営業しているのでは無いかと期待して)

男「……ちっ」

男(都合良く開いている訳も無い)

男(俺はぶらぶらと時間つぶしに歩き回る)

男(店から少し離れた場所に、小さな公園があった)

男(申し訳程度のブランコとタイヤの遊具、他には何もない)

男(誰からも忘れられているような、そんな公園だ)

男(だが)

女「……あ」

男「女さん……?」

男(彼女はそこに居た)


22 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:57:17.20OOMGAyot0 (22/29)

男(気が付けば、空は茜色に染まっていた。何処かでツクツクボウシが鳴いている)

男「どうして……店、閉めたんですか」

女「怒ってますよね……ごめんなさい」

女「もう、辛くなったんです。珈琲を淹れるのが」

男「それは……働く事とは別の問題ですか」

女「……考えてみたんです。私にとっての幸せ」

男(彼女はそう言うと、ぽつりぽつりと話し始めた)

女「私は自分の淹れる珈琲で人を笑顔にしたかった」

女「けれど、もう昔のような珈琲を淹れる事が出来ないんです」

女「……昔、付き合っていた彼が居たんです」

女「一緒に小さな店を開いて、ただ二人で静かに生きていたかった」

女「けれどある日、貯めていた資金を持って、彼は姿を消しました」

女「……それからは死に物狂いで頑張って、ようやく店を開く事が出来ました」

女「誓ったんです。二人でやるはずだった店を、私一人でやりきってみせるって」

女「私は復讐のために生きているんです。私の珈琲にはどす黒い怒りが入っているんです」

女「そんな珈琲を人様に出す事に、私はもう耐えられません」

女「もう、疲れてしまいました」

男(初めて彼女の本心を聞いた気がする)

男(少し妙だと思っていた。あの空間はあまりにも居心地が良すぎるし、彼女の気配りは細やかすぎる)

男(普通の感覚ではあそこまでたどり着けない。その力の源は……怒りだったのか)

男「どうしても、辞めてしまうんですか」

女「もう良いんです……男さんも言ってたでしょう」

女「自分が救われなければ無駄だって」

男「……!」

男(何も言えない。全ては愚かな俺のせいだ)

男「……俺は、あの店が好きです」

男「だから、賭けをしましょう」

女「……?」

男「一ヵ月後、俺があの虹色の珈琲を作る事が出来たら」

男「辞めないで貰えませんか?」

女「……良いですよ。出来るものならば」

女「私の珈琲は、そうそう真似出来る物ではありませんが」

男(彼女の目が鋭さを帯びる。珈琲への侮辱と思われて当然だな)

男(大見得を切ってしまった。後先なんて考えていなかった)

男(けれど、何もせずに黙っている事なんて出来なかっただろう)

男「……やるぞ」グッ

男(こんな気持ちは初めてかもしれない)


23 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 15:59:40.82OOMGAyot0 (23/29)

男(俺は昔から、何でも人の能力を盗む事から始めていた)

男(出来る奴がやっている事を真似るのが、一番早かったからだ)

男(だから、自分の力のみで何かを身に着けるのは、初めての事だった)

男(珈琲の知識、器具に豆。必要な物はすぐに揃える事が出来た)

男(初めて珈琲豆を挽く。良い香りだ)

男「どれ」ゴク

男(……悪くは無いが、やはり遠く及ばない)

男(何度だって試してやる。俺だってやれば出来るんだ)


24 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:04:13.28OOMGAyot0 (24/29)

男(一週間が経った。虹色どころか、色の一つも現れない)

男(それが当たり前だとは分かっているが、こうも手応えが無いのは心に来る)

男(疲れてしまった俺は、気分転換に町を歩いている)

老人「おや」

男「お久しぶりです」

男(やはり此処に居た。老人さんとも久しぶりに会う)

老人「……なるほどねえ、それで来月に珈琲を」

男「ええ、ですが全く上手くいかなくて」

老人「そうだろうなあ、あれには彼女の執念が込められていた。人生とも言っていい」

男(この人は時々核心を突くような事を言う。物事の内側を覗いているかのように)

男(一体この人には、何が見えているんだろう)

老人「でもねえ、男さん。一朝一夕にはいかないだろうが、覚えておきなさい」

老人「人生はホットケーキなんだよ。ちょっとしたきっかけで、ある日ぺろんと世界の全てがひっくり返る」

老人「頑張ってなあ。私もその日に向かわせて貰うよ」

男「はい、では……」

男(人生はホットケーキ、か……)

男(諦めるのはまだ早い。もう少し頑張ってみよう)


25 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:06:08.77OOMGAyot0 (25/29)

男(三週間が経った)


26 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:11:04.37OOMGAyot0 (26/29)

男「くそ、くそ! 何でだよ! 何が違うって言うんだ!」ドン

男(一向に進歩が無い。豆を変えても、様々な淹れ方を試しても、虹色は現れない)

男(最近はほとんど寝ずに頑張っている。それなのにどうして)

男(彼女の淹れるコツが怒りだと言うのなら、いくらでも注ぎ込んでいる)

男(呪いのように、深く煮えたぎる怒りだ。なのに旨くなる所かまずくなっている)

男(どうしてだ、どうして俺はいつもこうなんだ)

男(努力は報われない。どれだけ頑張っても時間の無駄だ)

男(出来上がった珈琲を飲む。まずい、まるで泥水だ)

男「クッソ……!」

男(ぶん投げたコーヒーカップが、がちゃんと音を立てて砕ける)

男(もう時間が無いのに、老人さんも期待してくれているのに)

男(本気で取り組んでいる。真剣に何百回も練習を重ねたんだ)

男(どうしてだ、どうして俺には何も出来ないんだ)

男(こんなに頑張っているのに……!)ギリ

男「ああ――!! あ――!」

男(怒鳴り声を上げながら珈琲ミルを壁に叩きつける)

男(買ってきた豆の袋を破く。黒い豆が床一面に散らばる)

男(苦しい。苦しい)

男(もうやめてくれよ。もういやなんだ)

男「あああああああああ――」

男(暴れに暴れた俺は、全ての力を失って床に倒れこんだ)

男(睡眠不足のせいで、一気に意識が遠のいていく)

男「……ごめんなさい……」

男(俺は眠ってしまうまで、両目から流れる熱さだけを感じていた)


27 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:20:31.07OOMGAyot0 (27/29)

男(夢を見ていた)

男(子供の頃の夢だ)

男(むっとするような草の匂い、じりじりと照り付ける炎天下)

男(プールの中から見える世界が、やけに美しかった事を覚えている)

男(あの頃は良かった。不安なんて何一つ無かった)

男(一体いつからこうなってしまったんだろう)

男(両親が事故で無くなってからだったかな)

男(弱い可哀そうな人間だと思われたくなかった)

男(人を見下して、自分より下を探して)

男(そんな事をしても、自分が強くなる訳でも無いのに)

男(俺には自信が無かったんだ。だからいつも人の目に怯えていた)

男(俺が何を求めていたか、ようやく理解出来た)

男(自尊心も何もかもを捨てて)

男(ただ、等身大の自分で生きたかったんだ……!)


28 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:23:35.80OOMGAyot0 (28/29)

男「あ……」パチ

男(目が覚めると、朝の五時前だった)

男(随分と眠っていたらしい。身体のあちこちが痛む)

男(俺はベランダに出て、ゆっくりと深呼吸をする)

男(ひんやりした早朝の空気が、喉を通っていく)

男(何だか、心が軽い)

男「……おお」

男(日の出を見るのはいつぶりだろう)

男(そこから見る景色は、ただただ美しかった)

男(世界がこんなにも美しいと思えたのは、初めてかもしれない)

男「もう一度……やり直そう。何度だって」

男(もう自分の弱さも、失敗すらも肯定してやれる)

男(つまらなかった俺の世界が、ぺろんとひっくり返っていた)


29 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:28:35.87OOMGAyot0 (29/29)

男(壊してしまった物全てを買い直し、俺は再び珈琲と向き合う)

男(一つ気になる事があった。彼女の珈琲に込められていたのは、怒りだけだったのだろうか)

男(彼女はいつだって客の事を思っていた)

男(むしろ、慈しみの方が感じられたように思う)

男(怒りと慈しみ、矛盾する二つの感情がポイントだとしたら)

男(俺は豆を挽く。彼女のような音は当然出ない)

男(それでも良い。淹れる為の全ての動作を、時間をかけて丁寧に行っていく)

男(丁寧に、丁寧に。自分の全てを注ぎ込んで)

男(そうして、俺の珈琲が出来上がる)

ユラ……

男「……はは、何泣いてるんだ俺」

男(それには、僅かながらも虹色が立ち上っていた)


30 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:43:08.57Vh/l3eBb0 (1/5)

ごりごりごりごり……

かちゃ

さっ 

とんとん

こぽぽ

つうっ……

「……よし」



31 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:47:44.07Vh/l3eBb0 (2/5)

女「……では、見せて貰いましょうか。キッチンはご自由にどうぞ」

老人「落ち着いてな」

男「はい」

男(全てが調和している。そんな感覚がある)

男(大丈夫。きっと上手く行く)

男「昔、俺は彗星について調べた事があります」

女「……彗星?」

男「一度だけ見た事があるんです。あの輝きは今でも忘れられない」

男「彗星って何で出来ているか知っていますか?」

女「ええと……隕石……岩や鉄、でしょうか」

男「ほとんどが氷や塵で出来ているんです。見た目からは想像もつきませんよね」

老人「ほう」

男「人はいつだって、光に惹きつけられるんだと思います」

男「彗星からしてみれば、自分は汚いゴミかもしれない」

男「けれど、自分では気付かないような光を持っているんです」

女「……」

男「出来ました。どうぞ」


32 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 16:57:14.53Vh/l3eBb0 (3/5)

ユラ……

老人(! カップから、僅かな虹色が……!!)

女「いただきます」

女「……」

男(彼女はそれを一口飲んでから、沈黙する)

男(長い長い沈黙だ。心臓が大きな音を立てて評価を待つ)

女「……美味しい、です」

男「……!」

女(本当に美味しい)

女(私の作る物ほどでは無い。けれど、彼の淹れる一連の動作は、硝子細工のような繊細さが込められていた)

女(人の為を思って淹れた、その気持ちがひしひしと伝わってくる)

女(どれほどの努力をしたのだろう)

女(私以外の人間が、この虹色の珈琲を淹れられるなんて)

男「……俺は自尊心だけが膨れ上がったクズでした」

男「けれど、貴女の珈琲を淹れようと努力して、少しだけ変わる事が出来ました」

男「貴女の珈琲の秘訣は、怒りとそれ以上の慈しみだと分かりました」

男「貴女は復讐の珈琲だと言っていましたが、俺は優しさの珈琲だと思います」

男「許せなくても良いんです。それも人間の心の一部です」

男「お願いします、もう一度やり直して貰えませんか」

女(私は自分の淹れる珈琲が嫌いだった)

女(それは、自分の憂さ晴らしの為に作っていたから)

女(けれど、この人は私の知らない自分を気付かせてくれた)

女(私の珈琲は、無駄じゃなかったんだ)ポロ

女「私、また作っても……良いんでしょうか」

男「はい。みんなが貴女の珈琲を楽しみにしてますから」

女「ありがとう、ございます……!」

老人「うむうむ。良かったなあ、これにて一件落着だ」ニコ

老人「どれ、私にもその珈琲を淹れて貰えないかね?」

男「ええ、喜んで!」ニコ


33 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 17:10:29.89Vh/l3eBb0 (4/5)

りん りん りん

女「あら、男さん」ニコ

男「どうも。本日の珈琲で」

老人「やあやあ、元気かい」

男「ええ。まだまだ暑いですね」

男(あれ以来、再び「芍薬」は営業を再開した)

男(やはり、この店は居心地が良い。暇さえあれば来ている気がする)

男(老人さんはいつも居るな。未だにあの年で坂を上って来ているのが信じられない)

女「あの……」

男「?」

女「この前のお詫び……お礼と言うか……」

男「ああ、別に良いんですよそんなの」

女「いえ、受け取って下さい」

女「サービスの新メニュー、カフェ・コン・レチェです!」

男「おお、これは……!」

男(透明なグラスの底にはハチミツ、泡立てたミルク、珈琲、さらにまたミルクの順で層が出来ている)

男(ハチミツの黄金色と、白と黒のコントラストが実に綺麗だ)

男「……うおぉ、旨い!」

女「下の方のミルクはアーモンドミルクを使っているんです。さらにレモンの花のハチミツを使いました」

女「珈琲はチェリーのような甘い香りと酸味がある豆を濃い目に抽出しています」

男「今までとは一味違いますね! 味に変化があるのに一体感がある」

男(これは彼女なりの、新しい自分への決意表示なのだろう)

男(それにしても旨い。珈琲の奥深さには今でも驚かされるな)

ふわ……

男「……⁉」

男(飲み終えた瞬間、花が……咲いた?)

男(今までよりも、さらに美しい感覚だ)

男(花が咲く珈琲、か)

男(彼女の珈琲は、また一段と洗練されたようだ)

老人「うむうむ。新しい事に挑戦するのは良い事だ」

女「私、これからも頑張りますから」

女「見てて下さいね!」ニコ

男(そう言って笑う彼女には、もう以前のような壁を感じられない)

男(俺もよく笑うようになった。以前は愛想笑いしかしなかったのにな)

男(居心地の良い空間と珈琲の香り。この店は俺にとって大切な場所だ)

男(きっとこれからも、この店の珈琲は人々を幸せにしていくんだろう)

男(此処は珈琲「芍薬」。町から少し離れた場所にある小さな店)

りん りん りん

「あの、すごく良い香りがして……ひとりなんですけれど」

女「……いらっしゃいませ!」ニコ

男(今日もそのドアを開けて、新しい客がやってくる)



34 ◆XkFHc6ejAk2020/08/23(日) 17:11:22.06Vh/l3eBb0 (5/5)

終わりです。ありがとうございました。


35以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします2020/08/26(水) 11:00:50.05ugxggukIo (1/1)

良いね。落ち着いていて好き。乙。