1名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:06:41Xsh (1/46)

腹ペコシスターに愛の施し──具体的には餌付けをするシリーズです。
幕間の話で、時系列的には1作目と2作目の間のお話です。
ラストがなんちゃってシリアスですがあんま気にしなくってOKです。
よろしければ是非。よろしくお願いします。


2名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:07:18Xsh (2/46)

【オードブル:ドア先の世界】



「あーーーーー…………あっつい…………」
「ちひろさん、あんまり暑い暑いって言わないでくださいよ。気力が根こそぎ持ってかれちゃうでしょ……」
「気力……ありますぅ……?」
「それは聞かない約束でしょ……」


3名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:07:53Xsh (3/46)

かんかん照りの青空。届く日差しはスペシウム光線もいかにという破壊力を伴って鉄筋コンクリートで組まれた事務所の温度を上昇させる。室内温度はとうとう30℃を超えた。これでは健康で文化的な最低限度の生活など夢のまた夢である。


4名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:08:13Xsh (4/46)

 福利厚生の基礎基本たる社員の健康管理は如何様になっているのか。責任者はこの事務所の現状をどのように捉えているのか。いや、もっと問題を矮小化させよう。具体的に言おう。解決すべき課題を一つに絞ろう。

 ────エアコンが欲しい!


5名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:08:25Xsh (5/46)



 先日のことである。事務所のエアコンが壊れた。
 ……素晴らしい。今我々が抱えている問題を端的に正確に全て余すところなく言い表してしまった。我々が直面している不幸はこれ以上でも以下でもないのだ。

 しかしなぜこのようになってしまったのか。こんなちんけなドラマでは視聴率もろくにとることはできない。責任者は誰か。
 ドラマはいつだって劇的だ。逆に言えば、劇的なものは全てドラマになりうるとも言える。この命題は逆も成り立つのだ(俺は知っているんだ)。

 だからこのエアコンをめぐる悲喜こもごものドラマについて、その顛末を語らねばならないだろう。涙なしには語れない話ではあるが、なるべく私情を排除し話させていただく。


6名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:08:37Xsh (6/46)


 
 最近のことであるが、我が事務所においてアイドルと担当の配置換えが行われた。とはいっても大きくない事務所だ。以前の担当と出会わなくなるわけでもないし、単に気分転換という意味合いが強い。
 俺も担当アイドルが大きく変更されたわけではない。むしろ変更はたった一点、たった一人しかなかった。つい先日空腹が過ぎ事務所内で倒れていた不思議系(?)アイドル───シスター・クラリスの担当を新しく任されることになったのである。


7名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:08:48Xsh (7/46)

 シスターは最初の出会いこそ(実に)衝撃的であったものの、その後それなりに付き合ってみると、その穏やかな人となりが彼女の本質なのだと思うようになった。
 いつ見てもお腹が空いていそうな雰囲気を醸し出しているが、いたずらにご飯をねだるようなこともない。実に奥ゆかしい人だ。いや、当たり前か。いくらなんでも人の顔を見たらお腹を鳴らすなどという人間がいるはずもない。いたとしたらそれは空前絶後の腹ペコである。


8名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:09:01Xsh (8/46)

 さて、引継ぎ資料によると、シスターは歌うことが特に好きらしい。元々教会で聖歌を歌っていたところを後輩がスカウトしたというのだから、その実力は折り紙付きだ。その反面、ダンスなどの経験は浅く、最近はそれらのレッスンを多めにこなしてもらっている。
 しかし弱点を補強することも大事だが、強みを活かすことはそれ以上に重要である。アイドル戦国時代と言っても過言でないこの時代だ。これといった武器を持たず、全てが平均点のアイドルは芽が出ず淘汰されてしまう可能性が高い。
 彼女からは高いポテンシャルをひしひしと感じる。それだけに、彼女の1番の強みである歌の上手さを活かせる仕事がないか。それを中心に、様々なことがレベルアップしていけば良いと考えていた。


9名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:09:15Xsh (9/46)

 そして、一週間前。地方テレビ局のローカル深夜番組であるが、童謡を歌う仕事を頂くことができた。俺が彼女にとってこれた、最初の仕事。自然と仕事先から事務所へと帰る足取りが軽くなる。
 必要もないのにエレベーターを一つ下の階に止まらせる。給湯室では響子と葵による料理教室が盛況に開かれていた。それを微笑ましく眺めた後、よし、と気合をいれて勢い良く階段を上る。逸る気持ちは抑えようにもこぼれ出てしまう。


10名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:09:42Xsh (10/46)


 俺はドアを開けた。


「お疲れ様です! 今戻りました!」


 ……うぃんと。機械そのものの鳴き声が聞こえた。

 ……ごおうと。けたたましい音を上げてエアコンが作動する。

 ……むしりと。額に届く風は走ってきた俺の熱をさらに上げようかという温度で。

 ……じろりと。その場にいた全ての同僚・アイドルが俺に視線を向ける。

 ……たらりと。冷や汗が背中を伝っていく。いくら猛暑でも、こんな冷え方は結構だ。



11名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:09:55Xsh (11/46)

「お……俺のせいじゃ、ない……ですよね……?」

 無言は肯定。沈黙は肯定。誰の目から見てもそれはたまたまが重なった偶然であった。そんなことは全ての人が理解していた……はずだ。

「……………………すいません……………………」

 しかしそれでも俺は謝罪の言葉を口にした。おお、なんと美しき社会人ムーブであろうか。たとえ責任が宇宙の彼方にあったとしてもそれを引き寄せ一心に背負う。人はこれを社畜と呼ぶらしい。


12名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:10:08Xsh (12/46)



 現代日本における真夏の方程式には自然と組み込まれているはずのエアコンが温風しか吐き出さなくなったわけである。自明なことであるが、その項を失った方程式の解は発散を迎えるしかない。
 しかも振動的発散ならまだよかったものの、これは指数関数的発散である。救いようがない。


13名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:10:20Xsh (13/46)

 エアコンを失った我々はなんとか修理を、と試みたがそれは叶わなかった。ネジを外してふんふんとうなずき、また元の形へと返すのが精一杯だった。元に戻したはずなのにネジが2つ余ってしまったのは秘密にしておかねばならない。
 先輩が「池袋さんに任せれば」と提案したものの、ちひろさんから「風の代わりにビームが出るようになってもいいのですか?」とバッサリ切られてしまった。「別にいい、むしろ良い」というのがプロデューサー陣の総意であったが、ちひろさんが No と言えば No なのだ。
 したがってこの土日はエアコンが修理される間、扇風機という旧時代の遺物を使用することになった。当然、それだけでこの悪魔的な青い夏の日を乗り切ることなどできるはずがない。


14名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:10:34Xsh (14/46)

 そして土曜の午後3時を少し過ぎた頃。
 無言で仕事を進めていた俺のところに、でろんでろんに溶けたちひろさんがアイス片手にやってきた。


15名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:10:51Xsh (15/46)

「あーーーーー…………あっつい…………」
「ちひろさん、あんまり暑い暑いって言わないでくださいよ。気力が根こそぎ持ってかれちゃうでしょ……」
「気力……ありますぅ……?」
「それは聞かない約束でしょ……」

 ちひろさんはいつもきっちり着こなしている緑のブレザーを着崩している。その気持ちは分からんではないが、いささか刺激が強い格好ではないだろうか。この場に俺という紳士しかいないから良いものの、例えば熊みたいな同期がいたら目を奪われて仕事どころではないだろう。

「ちひろさん、暑いのはわかりますが身嗜みを整えるのは社会人の基本ですよ。」
「えーーー、だから整えてるじゃないですかぁ。こんなに暑いんですから、これこそが場にふさわしい装いですよぉ。」
「……首元のボタン。もう一つでいいから閉めといてください。」
「けちぃ。」
「ケチではありません。」


16名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:11:04Xsh (16/46)

 ちひろさんはむー、と赤ん坊のような返答を返した後、どさりと来客用のソファに倒れ込む。……まぁこんな状況だ。来客も無いだろうし、アイドル達だって───

アイドル達、だって───レッスンとか、あったっけ…………。


17名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:11:14Xsh (17/46)

「…………そうだ。」

 閃きとはこのことを指すのだろう。むぇー? いうちひろさんの鳴き声が聞こえる。やたらめったら可愛いが、その声にならない声は悲しみから生ずるものである。さあ、今こそそれを吹き飛ばしてやろう。


18名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:11:35Xsh (18/46)

「ちひろさん。エアコンが壊れてるのはこの階だけですよね?」
「正確にはこの部屋だけですね……」
「で、俺たちは積もりに積もった仕事を片付けねばならない。俺たちは仕事をするためにこの場にいるんだから。」
「そーですねー……。」
「しかしそこで発想の転換です。逆に言えば、仕事さえしていれば後は何をしていてもいいのでは?」
「…………ほぅ?」
「仕事にも種類があります。積もり積もった領収書の精算。次の特番の企画書。レッスンや仕事の報告書や、出張手続きの書類など様々です。
 ですが、我々のいちばん大事な仕事とは……日々成長するアイドルを側で見守ることでは無いでしょうか?」
「…………続けてください。」
「今日、15時30分から。下のトレーニングルームでダンスレッスンがあります。」
「…………つまり?」
「見学。もとい到達度確認のためにレッスンに居合わせることは、むしろもっとも仕事熱心であるといっても過言ではありません。我々はそれに向かうことができる。いや、行かねばならない。プロデューサーとして。」
「…………そして、そのアシスタントとしてですね!」

 ……ガッチリ、熱い握手を交わす。そこには一意専心、ただひたすらにアイドルの成長だけを考えているプロデューサーとアシスタントの姿があった。

 …………結局溜まった仕事は消えないって? いやいや、必要な時に気分転換(ゲンジツトウヒ)するのもデキる社会人の条件だと何処かの雑誌には書いてあった。おお、再びなんと美しき社会人ムーブ。


19名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:11:55Xsh (19/46)



「……ということでやってきましたレッスンルーム。」
「何が『ということで』だ。涼みに来ただけだろう。」
「いやいや聖さん、これはれっきとした業務ですよ? 何せ担当アイドルのクラリスさんと美嘉のレッスンなんですから、真剣に見て何か気づいたところがあれば指摘しますって。」
「はーーーーーーーーーー生き返りますねぇ…………」
「…………本当か?」
「ホ、ホントウデスッテ……」


20名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:12:11Xsh (20/46)

 今日のダンスレッスンには、俺がデビュー前から担当しているアイドルである城ヶ崎美嘉と、件のシスター・クラリスの姿があった。急な訪問にシスターは驚くかな、なんて思っていたが、むしろ慌てていたのは美嘉の方だった。

「プッ、プロデューサー!? え、えっと、なんで今日は来てくれたの……?」
 美嘉はやや熱のこもった視線を俺に向け、ごく真っ当な質問を投げかけてくる。……まだ準備体操すら終わっていないが、額には汗が浮かんでいるように見える。そんなに熱いだろうか。まぁ部屋はエアコンが効いているとは言え、外は灼熱のジャングルだ。不思議なことはない。
「いや、たまには美嘉達の普段の頑張りも見ておこうと思ってな。こういう積み重ねがふとした変化に気づくきっかけにもなるだろうし。」
「へ、へー、そうなんだ。そ、そうだね……じゃあさ、アタシ今日めっちゃ頑張るから、近くで見ててよね! 虜にしてあげるから★」
「? うん、頑張れ。」

 ……詳しいことはよく分からないが随分と気合が入っているようで何よりだ。涼みに来た……もとい、視察に来た甲斐があったというものだ。


21名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:12:22Xsh (21/46)

 一方のシスターはというと、少し不安げな表情を浮かべていた。よく見ないと分からないが、眉根が少し沈んでいる。短い付き合いではあるが、彼女は感情が読み取りやすくて助かる。

「……シスターは、どうですか。ダンスレッスン、あまり得意ではなかったと思いますが……」
「そ、そうですね、アイドルになる前は経験がありませんでしたので……み、美嘉さんを参考に、精一杯頑張らせていただきます!」
「……うん、その意気です。今日は俺も見てますけど、普段通りやってくれればいいですから。」
「は、はい……。」
「よし! じゃあクラリスさん、柔軟しよ★」
「しっかり体をほぐしておけよ。怪我防止ももちろんだが、効率の良いトレーニングのためにも体から余計な力を抜いておくんだ。」
「はい……! では美嘉さん、聖さん。よろしくお願いします!」


22名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:12:35Xsh (22/46)



 柔軟体操を終えると、レッスンが始まる。
 まずは基本のステップから。リズムに合わせて前に出て足を上げ、また下がる。今度は逆の足でそれを行い、またその繰り返し。著しく地味な行為だが、しかしこの動作一つをとっても、熟練のアイドルである美嘉とシスターの間には明確な差が感じられた。

 それは言ってしまえば「華」というやつだろう。
 一つ断っておくと、決してシスターに華がないわけではない。むしろ彼女はよくやっていると評するべきだろう。アイドルになってそう日が経ってはいないのに、そのたおやかな動作はたしかに見るものの目を惹きつける。

 しかし、美嘉のそれと比較してしまうと、どうしても目劣りしてしまう。

 美嘉の動きは、文字通り「空気を動かしている」ようだ。
 一つ一つの動作のキレがいい。動くときはキビキビと。止まるときはビシッと動かない。長い手足を目一杯動かして迫力もバッチリだ。まるで彼女に合わせて世界がリズムを刻んでいるように見える。
 こういった動作はもちろん天性のものもある(特に美嘉はそれが優れている)が、しかしなにより積み重ねた練習量がモノをいう。

 努力する天才。城ヶ崎美嘉を形容するには、ぴったりの表現であるように思う。


23名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:13:03Xsh (23/46)



 レッスンは休憩時間に入った。休憩を挟んで後半は『お願い、シンデレラ』に合わせた振り付けを集中的に学ぶ。二人は休憩室でクールダウン。ちひろさんがスポーツドリンクを届けに行ってくれた。

「……さて、プロデューサー殿。ここまでの君の所感を述べたまえ。」
「……二人とも、思っていた以上によくできていますね。特に美嘉は言うことなしって感じです。」
「ふむ。……クラリスくんに関しては?」
「……このまま練習を続けていけば、もっと良くなると思いますね。このレッスン中でも成長が見て取れますし。」
「私もそう思う。そして、一人前になるまでにかかる時間はどれくらいを見積もっている?」
「……ふた月。」
「ふた月と三週間だ、私の見立てではな。……だが、その三週間は重いぞ。」
「ええ、そうですね……」


24名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:13:17Xsh (24/46)

 それが意味するところは明白であった。今は八月の初旬を少し過ぎた頃。そして四ヶ月後には、事務所総出で行われる冬のスーパーライブが控えている。

 ────俺はそこで、サプライズとしてシスターにソロ曲を歌ってもらうつもりだ。

 彼女はつい先日アイドルにスカウトされたばかりで、その知名度はまだまだといったところである。だけど彼女のアイドル性──まだ俺が引き出せていない魅力を発揮することができれば、そこでソロ曲を歌う資格は十分にある。

 そして俺は直感で感じ取っていた。それは可能であると。彼女ならやってくれると。

 しかしソロステージはユニットでのそれとはまた違った困難がある。注目されるのは当然だが、すべての目線が「自分だけ」に向くといった経験は味わってみないことにはどうにもならない。普段のパフォーマンスがいくら優れていようと、その緊張は別物なのだ。

 だから俺は、うちの事務所で最もそういった能力に長けた美嘉と一緒にレッスンを入れた──彼女から、なにかを学び取って欲しかったから。それは随分と成功しているようにも見えるが、まだ足りない。具体的に言うと、時間が。

 新人アイドルは『お願い、シンデレラ』のみの歌唱が恒例である。
 だからこそ、そのパフォーマンスは歴戦のアイドルと比べても遜色ない完成度でなければならない。自然と、練習時間はそこに割かれる。その上ソロ曲の練習ともなると、なるべく早めに全体練習、基礎練習は完成の域に達さないといけないのだが───


25名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:13:36Xsh (25/46)

「でも、大丈夫だと思いますよ、私は。」

 休憩室にいる二人にスポーツドリンクを渡してちひろさんが帰ってきた。軽薄な言葉運びのようで、その言葉(ことは)の裏は重い。

「ほう千川、ずいぶん彼女達を信頼している様子だが、その根拠はなにかな?」
「根拠? やだなぁ聖さん、ありませんよ、そんなの。」

 ちひろさんは右手をひらひらさせて笑顔を浮かべているが、どうにも目の奥は笑っていない。

「根拠なんて、過去の功績から判断するものじゃないですか。今から一歩を踏み出そうとする人たちに根拠なんて一つもないのが世の常です。」
「しかし、根拠がなければ信頼できないのも確かだ。」

「ええ、ですから。」


26名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:13:54Xsh (26/46)

「ですから、せめて私たちは手放しに彼女達を信じてあげましょう。
 よるべがほしい。頼れるものが欲しい。でもそれは後ろを見ても届かなくて───ただ、横を歩く仲間と、前を見る自分だけしかいないんですから。」


27名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:14:04Xsh (27/46)

「──私たちはそのどれにもなれないから。だから、無条件に信じるしかないと思うんです。せめて彼女達を励ませるように……いいえ。積極的な意味なんて持てなくていい。せめて、彼女達の邪魔にならないように。」


28名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:14:17Xsh (28/46)

 ───祈るしかないんです。とちひろさんは言葉を閉じる。その言葉の重さは。意味するところは。そしてその言葉の裏に秘められているちひろさんの想いは俺にも、聖さんにも十分に伝わった。そうか、この人はまだあの時のことを───。


29名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:14:28Xsh (29/46)

 ……しばし、沈黙が続く。誰かがこの空気を打破しなければならない。
 ここはどう考えても俺の役目だ。
 奮い立て俺の勇気。燃えよ情熱。

「あ───────」

 しまった。第一声が裏返った。
 ちひろさんも聖さんもどう反応すべきかさらに困惑を深めているようだ。くそ、失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した……!


30名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:14:45Xsh (30/46)

「よーーーーーーーーーし休憩終了! バッチリ休んだからね! 聖さん、後半もよろしく!」
「わ、私も美嘉さんにアドバイスをいただきまして……! す、すぐにやらせてください! 体が感覚を忘れないうちに……!」

 途端に重苦しいテクスチャが吹き飛んでいってしまう。…………やはり陰キャの振り絞った勇気よりも、カリスマギャルの一言というわけか。悔しくない、全然悔しくない。泣いてないからこっち見ないでくださいちひろさん。やめろ。やめて。

「……よし、いい度胸だ! 2人ともすぐに準備をしてくれ。ビシバシいくぞ!」
「うん、望むところ★ ……あ、それとプロデューサー、ちょっとちょっと。」
 ちょいちょい、と手招きを受ける。
 なにがどうしたことかと思いほいほい足を運ぶと───


31名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:14:56Xsh (31/46)

 途端、ネクタイを掴まれ顔をぐんと引き寄せられる。
 美嘉の唇が耳元に重なる。
 吐息が震えている。息が荒い。ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。そしてすぅと小さく息を吸い込み、彼女はこの距離ですら聞こえるか聞こえないかくらいの声量で弱々しく言う。


32名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:15:12Xsh (32/46)

「あ、あのさ……ああいう時に咄嗟に動けるのって、カッコいいと思うよ……す、少なくともアタシの中ではポイント高いっていうか……その……えっと……」
「……? 美嘉……?」
「と、とにかく! アンタはアタシの、アタシ達のプロデューサーなんだから、信じて待っててくれるだけでいいの! ……だから、クラリスさんのことも信じてあげてね。最初から最後まで、まるっとね!」
「は、はい……?」

 ぽかんとしているのは急に話を振られたシスターだ。なんのことでしょうか、と無言で首を傾げている。………むむ。その仕草は、どうにも可愛らしいではないか。

 しかし目の前の少女には驚かされてばかりだ───言いたいことを言い切ったのか、大きく息をつき胸を撫で下ろしている。顔もやや上気しているようにも見える。
 こんな等身大の女の子が、世のすべての女子高生を魅了するアイドルだというのだから、全く彼女の腹の括り方は並大抵のものではないのだろう。

 俺は彼女に誇れるプロデューサーでありたいと思った。だから、彼女に誇ってもらえるように仕事に邁進しよう。

「……ああ、信じるよ。それが俺の役目だからな。」

 その言葉を聞くと、美嘉はにかりと、気持ちの良い爽やかな笑みをこぼす。シスターもまだ話について来れていないようだが、むんっと改めて気合を入れたようだ。

「プロデューサーさん……! 私──────!」


33名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:15:24Xsh (33/46)

 グゥ~~~………


34名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:15:40Xsh (34/46)

 がんばり……という部分だけは聞き取ることができた。
 最後のいくつかの音粒はごにょごにょと、何という音かは判別できない。
 ……嗚呼、こんなにも無情なことがあるだろうか。結構良い雰囲気だったぞ? これがドラマならクライマックスシーンだというのに。

「……み、美嘉さんやい。今日、レッスン終わったら時間はありますかい?」
「え、ええプロデューサーはん。今宵はあちきも暇三昧。何か面白いものを見せてはくれないかしら?」
「……よ、よしきた。ちひろさんも聖さんも、この後どうでしょう。」
「……あ、ああ。私も参加させてもらう……いただきやす。」
「わ、わー……楽しみ、楽しみでござんす……。」

 ……エセ京都弁……いや、京都弁ですらないな。謎の言語をひたすらみんなで紡いでいる。その中心でシスターは真っ赤になって俯きプルプルと震えている。お腹を抱えているようだが、一体全体なにが起こったのやら……俺たちはなにも見なかったし聞かなかった、そうしよう。

 でもまぁ。俺はそうはいくまい。俺だけはそうはいくまい。まだ日は浅いとはいえ、俺は彼女のプロデューサーなのだから。
「し、シスター。」
 ……担当アイドルが困っていたら助けるのがプロデューサーだ。だからその悩み。この空気。俺が見事断ち切って見せよう。
「終わったら、みんなで給湯室に来てください……美味しい料理を用意して待っていますからね。」

 できるだけ笑顔で。
 できるだけ優しく。
 俺はシスターの頭をひと撫でして、給湯室へと向かった。


35名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:15:53Xsh (35/46)

【今日の一品:唐揚げ丼】



 ……給湯室に着くと、響子と葵が料理教室の後片付けをしているところだった。
 事情を話すと、響子がおすすめのレシピを教えてくれた。結構ガッツリ腹にたまるが、動いた後ならいいかな。
 
 二人は今から寮に帰って夕ご飯を作るそうだ。料理が大変なら部長にかけ合うけど、と言うととんでもないと見事に断られた。二人も良い気分転換になっているようだ。
 負担にならないようにな、と声をかけて二人と別れる。はぁい、という重なった返事が不思議なくらい明るく感じた。

 ────さて、ではいざ参ろう。今日はみんな大好き唐揚げをご飯の上に盛り付けてガッツリいただく男メシ。名付けて唐揚げ丼である。……そのままのネーミングだな。


36名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:16:12Xsh (36/46)


 
 レシピの分量は二人分。
 
 ────まず、鳥もも肉350gを8当分に切る。胸肉でも良いが、もも肉の方がよりジューシーな味わいだ。またもも肉は事前に室温で解凍しておいた方が、調味料の染み渡り具合が良くなる。

 ────ボウルに醤油大さじ3、料理酒大さじ2、みりん大さじ1を混ぜ、タレを作る。さらにチューブニンニクとチューブ生姜を1センチから2センチほど、好みで入れる。
 そしてここで唐揚げを美味しくする隠し味──白だしを小さじ2混ぜる。この白だしがとても良い役割をする。是非試してみてくれ。

 ────もも肉をタレにつけよく揉み込み、30分から1時間ほど待つ。……下の階から、レッスンシューズが床を舐める音が聞こえる。それをBGMにしつつ、今回は45分ほどつけた。

 ────フライパンに油を半分ほどの高さまで入れ、中火で油を熱する。……菜箸などを油に刺してポコポコと泡が立つくらいになったら揚げ時だ。

 ────もも肉を片栗粉にまぶし、油の中にサッと入れる。……小麦粉ではないのか!? と思われるかもしれない。それは竜田揚げだろう! と仰りたいあなた、気持ちはよくわかる。
 ではここで暴論を述べよう……竜田揚げだろうが唐揚げだろうがザンギだろうが結局全部一緒! 親戚は区別しない! 異論は認める! 正直すまん!
 ……一応小麦粉で揚げると、衣が柔らかくなりふわっとした口当たりになる。片栗粉の場合はカリッとした食感がたまらない。しかし片栗粉の良いところは揚げたてでこそ発揮される。お弁当などに入れる場合は小麦粉のほうがいいかもしれないな。

 ────揚げるときは、あまり肉を動かさないのがポイントだ。絶妙のタイミングで(ここは慣れがものをいう)裏返し、両面をしっかり揚げる。

 ────充分に揚げ切ったら唐揚げをキッチンペーパーなどにとり、余分な油を拭き取る。さあ、これで絶品唐揚げが出来上がったぞ。

 ────どんぶりにご飯をよそい、千切りにしたキャベツ1/8をその上に敷き詰め、最後に唐揚げを載せたら完成だ。……ちょうど、階下から複数の麗しき話し声が聞こえる。


37名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:16:29Xsh (37/46)

 いの一番に、シスターがやってくる。遅れて美嘉が、聖さんが、最後にちひろさんが。
 レッスンはどうでしたか。良かったですか。ゆっくり聞かせてください。
 でもまずは、お腹をいっぱいにして。
 腹ペコが腹ペコでいることを俺は許さない。美味しいものを食べて幸せになってもらおう。

 ……胡椒とかマヨネーズとか七味とか、味変のバリエーションはたくさんある。まだ肉は余りがあるから、好きなだけ食べてくださいね。遠慮は一番いけませんよ。

 さて、それでは……


────いただきます。



38名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:16:40Xsh (38/46)

【デザート:眠れる獅子は獅子ならず】



 ……天国だ。エアコンが修理された今、事務所は酷暑の鉄筋コンクリートジャングルにおける青々としたオアシスになった。
 自然と出入りするアイドルの数も増える。今日は特に用事もなかったように記憶しているが、美嘉と唯がこちらをチラチラ見てはキャーキャー言っている。……陰キャには結構効くぞその攻撃。

 すると意を決したように美嘉が俺のところまでズシン、ズシンと歩んでくる。……ズシンだなんて。年頃の女性にとっては失礼な表現だが、ここはあえて正確を期すためにこの表現を用いさせてもらおう。


39名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:16:52Xsh (39/46)

「ぷっぷぷぷぷぷぷぷぷぷプロデューサー。プロデューサーは、好き?」
「…… like は他動詞だぞ。」
「えっ!? え、ええとそのあの……か、唐揚げとか好き!?」
「唐揚げ? ああもちろん。俺の知る限り唐揚げが嫌いな男はいない。合体変形ロボットと肩を並べるほどの嗜好率の高さだ。」
「へ、へー、そうなんだ……あ、あのさ。今日、アタシたまたま食べ切れないくらいの唐揚げがお弁当箱の中に入ってさ。め、迷惑じゃなければちょっと食べても良いよって感じなんだけど……」
「え? いや、そんなの悪いよ。だって人の唐揚げもらうとか、お弁当法において3番目に重い罪じゃないか。」
「えっ……えっと……えっとぉ………」
「はーーーーーーーーいプロデューサーちゃん、美嘉ちゃんね、これプロデューサーちゃんのために作ったんだって! わざわざ! あげるためにだよ!」
「唯!?」
「え、そ、そうなのか……でも、なんだってそんな……?」
「……前、レッスンの後唐揚げ作ってくれたでしょ。あれ、すっごい美味しくて。アタシが食べた唐揚げの中でも、本当にいっちばん美味しくて……だ、だから恩返しっていうか!? 唐揚げ同盟締結のための第一歩的な!?」
「そ、そうか……じゃあ、ありがたくいただくぞ……? いただきます…………。」
「う、うん………ど、どう……?」
「…………美味しい! 美嘉、すっごく美味しいぞこれ! ど、どうしたらこんな美味い唐揚げ作れるんだ!?」
「え、えっと、ナツメグがポイントで……」
「やっぱりナツメグかぁ~~~! 大体の唐揚げ専門店の唐揚げにはナツメグが入ってるもんな。よし美嘉、今度一緒に唐揚げを作ろう。是非作り方、教えてくれ!」
「い、一緒に!? 二人っきりで!? ひゅ、ひゅん!」
「きれいに噛んだな……」
「美嘉ちゃん……まあ、一歩は踏み出せたって感じかな……。」


40名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:17:06Xsh (40/46)



 今度の土曜日に響子と葵の出張特別料理教室があると聞いた。美嘉も食に関心が高いならば一緒に参加すれば得るものもあるだろう。そう伝えると若干瞳の色が濁ったが、快諾してくれた。次の休みが楽しみである。

 その休みを有意義に過ごすためにも、平時の仕事を綺麗に片付けねばならない。今日はレッスン後のシスターを連れて地方テレビ局での仕事だ。俺と彼女の、第一歩。

 ……だが。そろそろ集合時間なのにも関わらず、一向に彼女がやってくる気配がない。生真面目な彼女がどうしたことだろうと疑問に思い、レッスンルームに足を運ぶ。……聖さんの声も聞こえるから、ふたり夢中になってレッスンに取り組んでいるようだ。


41名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:17:18Xsh (41/46)

 俺はドアを開ける。


 瞬間、世界がはじけ飛んだ。
 ───彼女から、目が離せない。
 流麗な動き。女性らしい柔らかさを思わせる曲線が、すぅと音もなく停止した。

 合図の後。
 世界が裏返ったかのように、激しく直線的で──暴力的な雰囲気さえ感じられる動き。
 ───彼女は、一体───?


42名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:17:35Xsh (42/46)

「プロデューサーさん?」

 彼女の声ではっと意識が現実へと引き戻される。

「え、あ、ああ……そろそろ、出発の時間ですから、準備をと……」
「む……!? しまった、もうこんな時間か! すまないプロデューサー殿。時間を忘れてレッスンにふけっていた。クラリスくん、ここは私が片付けるから、君は汗を流してきたまえ。」
「シスター、社用車を玄関に回しておきますので、焦らず急いで来てください。」
「は、はい……! そ、それでは失礼いたします……!」

 シスターがシャワールームへと走っていく。ドアがぱたんと閉じ、レッスンルームには俺と聖さんの二人だけになった。

「聖さん…………あれは……。」
「ああ。私も正直驚いている。まさかここまでとはね。」
「最初の動きは、今までの彼女が洗練されたかのようでした。だから理解はできる。だけど、後半の動きはもはや別人だ。短期間であそこまで叩き込むなんて、どんな魔法を使ったんです?」
「魔法……言い得て妙、だな。」


43名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:17:49Xsh (43/46)

 聖さんによれば、レッスンごとに動きのキレは着実に増していたらしい。しかし見ていてどこか窮屈さを感じたため、一度リズムに合わせて好きなように動いてみろと話した。それで癖がわかれば良い、などという軽い思いだったようだが……

 ──────突いて出たのは龍。
 いや、違う。不十分だ。
 ──────嵐を纏った神話上の怪物すら、彼女を言い表すには荷が重い。

 それは形容しようがない迫力。目を奪われるのではない。目以外のすべての主導権を握られた末、唯一残った自由度を掌の上に乗せられているかのような───すべての行動に対する優先権を握られたかのような錯覚を覚えた。


44名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:18:04Xsh (44/46)

「プロデューサー殿。彼女はきっとすごいアイドルになる。……すごいアイドルなんて言葉が陳腐に聞こえてしまうくらいのな。」
 
 俺は声を出すことができない。
 衝撃が体中を駆け巡っている。
 生唾が固体のように固まり、ゆっくりと喉仏を通過した。

 部屋の温度が妙に寒い。
 今ここに、クーラーなどかかっていないというのに。
 夢心地のまま、俺はようやく自分の仕事を思い出し、体が動く。


45名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:18:14Xsh (45/46)

 それにしても……
 俺は果たしてこの先、彼女をきちんとプロデュースして行けるのだろうか───?


46名無しさん@おーぷん20/03/24(火)00:21:14Xsh (46/46)

以上です。

幕間は料理中心でss部分はなるだけ削ろうと思っていましたが、達成ならず。次回以降は気をつけます。

他には最近こんなものを書いていました(最近の3つです。渋には掲示板に載せていない作品もあるので厳密ではありませんが)。
これらも含め、過去作もよろしければぜひ。
よろしくお願いします。



【モバマスss】Fairy tale を歌って 【三船美優】
https://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1582990294/l10

【村上巴】見つめて、見つけて。【川島瑞樹】
https://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1581780920/l10

【モバマスss】腹ペコシスターの今日の一品;トースト、二枚。
https://wktk.open2ch.net/test/read.cgi/aimasu/1581429662/l10


47名無しさん@おーぷん20/03/24(火)19:02:49Tyt (1/1)

季節感がアレなんでちょっと感情移入が難……


48名無しさん@おーぷん20/03/24(火)20:00:55IeE (1/1)

唐揚げの旨さに季節はないやいね