1 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:35:57.87X8iHQg2iO (1/24)

調理係のおばさん達とお客様にお出しする朝食を作り終えたわたし、高海千歌は両手を組んで「んんーっ」と腕と背筋を伸ばした。
そして料理長の「千歌さんはもう上がっていいですよ」のお言葉に甘え、十千万の厨房を後にする。

千歌「さてと、そろそろ眠り姫を起こしますか」

割烹着を洗濯かごへ放り投げ、最愛の人が眠る寝室へと向かった。

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2 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:38:31.17X8iHQg2iO (2/24)

カーテンの隙間から差し込む柔らかな春の日差しが、すぅすぅと寝息を立てる彼女のぷっくりとした桜色の唇を照らす。
思わず目が行ってしまい目覚めのキスをしたくなるも、ぐっと理性で抑えてみせた。

梨子「だいすきだよぉ、ちかちゃぁーん。むにゃむにゃ」

ダブルベッドの上でお気に入りのラッコのぬいぐるみを抱きながら、夢の中でわたしへ愛の告白をしているのがわたしの妻、桜内もとい高海梨子ちゃんです。

千歌「梨子ちゃん、りっこちゃーん」

軽く肩を叩きつつ名前を呼ぶと、彼女が「ううんっ?」と間の抜けた声を上げながら目を開いた。
琥珀色の双眸にくっきりとわたしの顔が映る。

梨子「ああ……おはよう、千歌ちゃん」

千歌「うん。おはよう、梨子ちゃん」

「よっこいしょ」と彼女が上体を起こすと、淡いピンク色のネグリジェに包まれたぽっこり膨らんだお腹が視界に入った。

太った?
違うよ、梨子ちゃんは妊娠しているんだよ。

https://i.imgur.com/AZLyJFE.jpg

お相手は誰かって?
決まってるでしょ。わたしの他に誰がいるのさ!
浮気相手だったらこんな心中穏やかでいられないからね!


3 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:39:45.00X8iHQg2iO (3/24)

梨子「んんっ……ちょっと頭クラクラする」

脳にまだ血が巡ってないらしく、梨子ちゃんが頭を上下に揺らす。

千歌「大丈夫?まだ疲れが残ってるの?」

昨日は週一のマタニティスイミングの日だった上、晩にも「最後になるから」とベッドの上で張り切り過ぎた訳だし。

梨子「ううん、大丈夫だよ」

昨晩のことを思い出したのか、彼女の顔が熟れたトマトのように紅く染まったのに気付いたので、わたしも気恥ずかしくなり視線を逸らした。

千歌「ほんと?梨子ちゃんも梨歌も──」

梨子「何も起こってないから。ほんと、千歌ちゃんは心配性なんだから」

出産予定日を来週に控えた妻の身を案じるのは、いたって普通だと思うんだけどなぁ。
あと梨歌というのは娘の名前ね。二人の名前から一文字ずつ取った、わたし達の愛の結晶だよ。


4 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:40:40.78X8iHQg2iO (4/24)

テーブルに向かい合って座り、二人揃って「「いただきます」」と両手を合わせちょっと遅めの朝ごはん。
ハムやレタスやタマゴサラダを挟んだ彩り豊かなサンドイッチを、一口サイズに切ってお皿へ並べてみました。

https://i.imgur.com/JInEpk7.jpg

梨子ちゃんは着替えを済ませ、薄い水色のワンピースに蒸栗色カーディガンを羽織っていた。
また自慢の臙脂色のサラサラロングヘアーは、結ってサイドアップにしてある。

千歌「梨子ちゃんも飲むヨーグルトでいい?」

梨子「うん、お願い」

ニュース番組を観ながら口をちっちゃく開き、はむはむとゆっくり噛んで食べる梨子ちゃん。
悪阻で食欲が落ちた上、頻繁に吐き戻していた頃は「梨子ちゃんが死んじゃうよぅー」と狼狽えてばかりいたが、このとおりすっかり生気が戻り安堵している。

冷蔵庫から紙パックを取り出し、飲むヨーグルトをお揃いのマグカップに注いでいると、テレビから聞き覚えのある言葉が耳に入ってきた。

キャスター『次のニュースです。小原グループは昨日より「百合の芽計画」の第二次協力者となってくれる夫婦の募集を始めました』

小原グループとは鞠莉ちゃんのお父さんが総裁を務める、世界を股に掛ける複合企業だ。
近年はホテル経営で得た多額のお金を、介護や医療方面における新技術の開発に充てている。


5 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:41:19.37X8iHQg2iO (5/24)

千歌「第二次ってことは、産まれた子はもう三歳になるんだよね?」

梨子「第一次が四年前だからね」

キャスター『この「百合の芽計画」とはIPS細胞を用いた不妊治療を、民間で実用化するための前段階にあたるものです』

不妊治療も同計画の主要な目的ではあるが、世間へ大々的に伝えられていないもう一つの目的もあり、そちらへわたし達は関わって
いた。
それは『女性同士で子どもを作る』というものだ。


6 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:42:02.88X8iHQg2iO (6/24)

全てはちょうど一年前、小原グループの重役となった鞠莉ちゃんからのメールに端を発す。
それは『子ども、欲しくない?』なる件名に『三日後の正午に説明会を行うから淡島ホテルまで来て』とだけの簡潔なものだった。

お互い大学を卒業した後、晴れて同性結婚したわたしも梨子ちゃんも「子どもが欲しい」と一度も望まなかったと言えば嘘になる。
志満ねえも美渡ねえも普通に男の人と結ばれ、一緒に子育てしているのを眺めていて羨ましく感じたことは一度や二度ではない。
中学校で音楽の先生をしている梨子ちゃんも「生徒達と触れ合っているうちに、私も明るい家庭を築きたいなぁ……って思ったの」と以前に話してくれた。

しかし女性同士で結婚する以上は、子どもを諦めざるを得ない。
それに関しては入籍する前にきちんと二人で話し合い納得している。

渡りに船な知らせに対し、先に「説明だけでも聴いてみない?それから判断しよう」と口にしたのは梨子ちゃんであり、わたしはこの提案を快く受け入れた。


7 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:42:54.95X8iHQg2iO (7/24)

淡島ホテルの大広間──ニュースでもよく目にする、小原グループが記者会見をする際に使われる場──には、わたし達以外にも日本各地から女性同士のカップルが二十組近くも集まっていた。

「百合の芽計画」の説明は計画の主任となった鞠莉ちゃんが、壇上からパワーポイントを用いて行った。

https://i.imgur.com/tN7qJJ1.jpg

鞠莉「IPS細胞による実験は、既にマウス、ピッグ、ドッグ……そしてチンパンジーを始めとした十二種類の霊長類で成功しています」

彼女の説明に合わせ、仲睦まじい動物の母子の映像がスクリーン上へ次々と映し出される。

https://i.imgur.com/Q1enjWr.jpg

鞠莉「その上で、本計画は民間で実用化する前の最終段階として、人間で実験を行うことになりました」

千歌「……実験って」

雷に打たれたようなショックを受けた。要するにわたし達へ「実験動物になれ」ということか。

でもわたしは淡々と語る鞠莉ちゃんの右腕が、微かに震えているのに気付いた。
彼女自身、希望を抱いてこの場に集まってくれた人達へ覚悟を問わねばならないことに胸を痛めているのだろう。


8 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:43:43.68X8iHQg2iO (8/24)

問題は成功確率だ。最初期よりも二組のDNAを分解し再結合する技術も進んだとはいえ、最新の実験でも正常な子どもが産まれたのは六十七パーセント。
つまり単純計算で三分の一の確率で死産するか、あるいは何らかの障害を持った子が産まれてくる可能性があるということになる。

鞠莉「もちろんリスクの大きいプロジェクトゆえ、子育てに掛かる費用は子どもが成人するまで小原グループが保証します」

なんとか説明を終えた鞠莉ちゃんに浴びせられたのは、無情な批判の雨あられだった。

女性A「ふざけてる……人の命を何だと思ってるの!」

女性B「信じられないわ、私達は人間なのよ。犬や豚とは違うのよ!」

女性C「お金の問題じゃないのよ。いくら支援金を積まれようともお断りするわ!」

彼女達が憤るのも理解できなくはないが、何も代表として言いづらいことを語った鞠莉ちゃんを責めることはないだろうに。
実験動物に近い扱いだろうとも、成功率が低かろうとも、非難の嵐の中であろうとも、わたしの気持ちは揺らいだりはしなかった。


9 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:44:32.72X8iHQg2iO (9/24)

だからこそ、

千歌「わたし、受けたいです!」

と堂々と宣言してみせたのだ。観衆のざわめきがぴたりと止む。

これにはAqours 時代の恩人を助けたい、という思惑もある。
加えてこの空気の中で怖じ気づいてしまったかもしれない誰かに勇気を与えたい、という思いも少なからずあった。

とはいえわたしとて前例がないことに挑戦するのは、正直恐い。
ましてやわたしではなく「言い出しっぺだから私が産むね」と言ってくれた梨子ちゃんに全てのリスクを背負わせるなど、罪の意識で心臓が潰れてしまいそうだ。
「堕胎などで受ける心身的な苦痛を甘く考えているのね」と罵られても仕方ない。

そんな中、隣に立つ梨子ちゃんがわたしの震える手をぎゅっと握りしめ、

梨子「私、千歌ちゃんの赤ちゃんが欲しい!」

とわたしに倣って力強く宣言してくれたのは、これまで彼女から向けられたどんな言葉よりも嬉しかった。

https://i.imgur.com/7hin6Di.jpg

だってこんな行為、わたしへ心の底から好意を持ってなければできっこないんだから!


10 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:45:24.06X8iHQg2iO (10/24)

千歌「ありがとう、梨子ちゃん。大好きだよ!」

愛しさが爆発するのを抑えられず、人目を憚ることなく最愛の人をぎゅっと抱きしめる。
熱々なバカップルを目の当たりにして、これ以上文句を口にする者は誰一人いなかった。

残念ながら一か月後の契約手続きの場にはわたし達を含め二組しか来なかったが、彼女達が「二人の言葉に勇気を貰った」と語ってくれたのは、こちらとしても感謝感激だった。
きっと他に志願者がいなかったら、不安に負けて踵を返していたに違いないから。

契約後は小原グループが経営する産婦人科で、わたし達のDNAを組み合わせた人工受精卵を梨子ちゃんの子宮に着床させたり、母体と胎児に掛かる負担の説明を受けたりと色々あったが……わたしにはさっぱりな点もあるのでばっさり省略しておく。


11 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:46:09.71X8iHQg2iO (11/24)

その結果が、今の梨子ちゃんのくす玉を抱えたようなまん丸お腹な訳です。
幸い半月ごとの定期健診でも母子ともに異常はなく、彼女のお腹の中で梨歌はすくすくと育ってくれたのだ。

気象予報士『静岡は広く高気圧に覆われ、春一番の陽気に包まれるでしょう。桜前線も間もなく到来し──』

梨子「予定日と重なるんだね」

そう独りごちながら、梨子ちゃんが自分のお腹を優しく撫でる。
妊娠四か月を過ぎてお腹が膨らみ始めた頃から自然とそういう癖ができたようで、面倒見がよく母性的な彼女に似合う素敵な癖だと感じている。

千歌「そっかぁ、桜が咲くのと一緒に産まれてくるんだね。じゃあ梨子ちゃん似の可憐な娘になるね、梨歌は」

梨子「私としては、千歌ちゃんみたいに活発な娘に育ってほしいんだけどなぁ」

何度目になるかわからない「理想の娘像」を二人で語り合う。
例えどんな性格に育とうとも、わたし達が梨歌を全身全霊を掛けて愛することに変わりはないが。


12 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:46:58.18X8iHQg2iO (12/24)

朝ごはんを済ませ少しゆっくりした後、わたし達は愛犬達との散歩のため外に出た。
ぽかぽか陽気が心地よく、そろそろタンスの奥で眠っている春物衣類を目覚めさせてもいい頃合いかもしれない。

梨子「じゃあ行こっか、しいたけちゃん」

千歌「今日もよろしくね、プレリュード」

本来の主人とは逆にバディを組み、わたし達は散歩へ出発した。

https://i.imgur.com/HrQf29W.jpg

これは梨子ちゃんのお腹の膨らみが目立ち始めてから、しいたけがまた彼女へ積極的に擦り寄るようになったためだ。

梨子「しいたけちゃんはきっと先輩ママとして、私へ何かを伝えたいんだと思うの。もちろん犬の言葉はわからないけど、そんな気がする」

梨子ちゃんが語ったような技術を実用化する実験をするのなら、わたしはぜひ協力したい。
自分がもうすぐこの世を去る時は近いのだ……と悟っているようなしいたけの願いを叶えるためにもなるのだから。
姉バカなのは承知だけど賢い「妹」だよ、しいたけは。


13 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:47:47.09X8iHQg2iO (13/24)

梨子「私ね、いつか普通に男の人へ恋をして、結婚して、その人の子どもを身籠る日が来るんだ……ってずっと思ってたの」

千歌「うん、わたしも」

普通、常識、当然、一般的、当たり前。
物心ついた頃から世間の価値観を押し付けられるのが大嫌いだったわたしでも、将来に関しては漠然と「異性と結ばれるものだ」と考えていた。

けれど今こうして隣を歩く人は、わたしと同じ女性である。
しかも互いにこれがごく自然だと感じていることを「奇跡」と呼ばずに何と呼ぼうか。

梨子「もうすぐ来るんだよね。当たり前が当たり前じゃなくなる日が」

千歌「そうだよ、わたし達が輝きになるんだよ。当たり前を良しとしない人達の」

お互いの両親や二人の姉、他の元Aqours のメンバーや友人達はわたし達が付き合うのを祝福してくれた。

ところが今に至るまでの過程を知らない人からは「子どもが産めないのに」などとたびたびデリカシーに欠けた言葉を放たれるのが現状だ。

だけど同性でも子どもが作れる技術が一般社会へ普及すれば、こうした偏見は徐々に薄まってゆくと信じている。
例え自然な形でないとしても、二人が愛し合った上で「欲しい」と願って産まれてきた子どもが、普通の子どもと同じに扱われる未来が訪れるに違いない。


14 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:48:27.05X8iHQg2iO (14/24)

スクールアイドルだって市民権を得るまでは「チャラチャラしたごっこ遊び」だの「学力低下に拍車をかける」だの数々の非難を浴びてきた。
これと同じように常識とは不変ではない、塗り替えられていくものだと証明したい。

梨子「あっ、小鳥ちゃん」

千歌「えっ⁉ μ`s の?」

梨子「いや、違うって。ほら、あれ見て」

梨子ちゃんが指差した先は、ある民家の軒下だった。
近付いてみると、二羽のスズメが大口を開けてピーピー鳴くヒナ達へ、せわしなく餌を運んでいた。

https://i.imgur.com/zj935nF.jpg

千歌「同じなんだよね、人も犬も鳥も。命を次へ繋いでゆくのは」

梨子「千歌ちゃんってば、まーた何か悟ったようなことを言うんだから」


15 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:49:18.04X8iHQg2iO (15/24)

三十分ほどの散歩から戻ったわたし達は、春物衣類やベビー用品の整理などをしてゆったりと午前を過ごした。
そして遅めのお昼ごはんを済ませた一時半頃に、高校時代からの親友二人が十千万を訪ねてきた。

善子「出迎えご苦労であるぞ、神々が定めし摂理へ反逆せし同志達よ!」

梨子「授業中は堕天使出てないよね?よっちゃん先生」

善子「ちょっと童心に返ってみただけよ!」

一人は黒のスーツがびしっと決まった津島善子ちゃん。
梨子ちゃんが突っ込んだように、彼女は現在小学校の先生をしている。
授業では古今東西のゲームを用いた例えが生徒達のハートをがっちり掴み、今やすっかりみんなの人気者となっていた。

花丸「まあ子ども浜祭りの打ち合わせなんだし、別にいいと思うずら」

もう一人は国木田もとい津島花丸ちゃん。
彼女は実家であるお寺の手伝いをしながら、地元の新聞に四コマ漫画を連載している。
Aqours の時代に漫画形式で活動日誌を描いていた経験が活かされており、読者からのウケもいいそうだ。


16 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:50:11.31X8iHQg2iO (16/24)

千歌「お正月以来だけど、花丸ちゃんもすっかりまるまるっと丸くなったよね。梨子ちゃんとお揃いで」

彼女のお腹はベージュ色のワンピース越しにもわかるほど、ふっくらとした曲線を作っていた。

https://i.imgur.com/hj5HQ4Z.jpg

善子「ほんとにね。リリーも西洋のドラゴンみたくお腹が出ちゃって」

今さら語るまでもないかもしれないが、津島夫妻こそ「百合の芽計画」にて協力者となったもう一組の同性夫婦である。

花丸「それじゃあ、お邪魔します」

善子「足元に気を付けなさいよ、ずら丸。転んだら一大事なんだからね。ほら、そこに手すりあるから掴んで」

梨子「ふふっ、心配性なのはよっちゃんも変わらないのね」

今朝のわたし達を彷彿とさせる津島夫妻のやり取りに梨子ちゃんが微笑む。

千歌「そりゃわたしも善子ちゃんも、梨子ちゃんや花丸ちゃんの苦労がわかってますから。……ちょびっとだけど」

妻のお腹が膨らみ始めた頃、便宜上「旦那」となる私と善子ちゃんは公民館で妊娠体験実習を受けた。
臨月を迎えた妊婦さんの胴体を模した重さ十キロもあるスーツを装着し、日常生活で行う様々な動作をするというものだ。

階段を昇り降りするのも、靴を履いたり脱いだりするのもせり出したお腹が邪魔をして一苦労なもので、こんな経験をしたら誰しも過保護になってしまうのは仕方ないのです。


17 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:51:04.81X8iHQg2iO (17/24)

内浦子ども浜祭りは四月半ばに開かれるイベントで、子ども同士で店員とお客さんの立場を交代しながらみんなで楽しむのを目的としている。

わたし達大人がすることは、屋台やのれんなどを設置するといった会場設営に関することだ。
今日津島夫妻が来たのも老朽化した備品を一新するに当たり、業者へ受注するデザインや予算について話し合うためである。

この「お仕事」は、市の観光協会役員に選ばれたわたしと花丸ちゃんに任された重要な使命だ。
なおAqours が地元を宣伝するPVを作った頃から、協会側がわたし達に目を付けていたらしい。

わたしとしても「産まれ育ったこの町が好きで、伝統や文化を後世へと伝えていきたい」という想いがあったので、スカウトを受けた際にその旨を伝えて快く加入したのである。

花丸「この大正風のデザインはどうかなぁ?」

千歌「綴りが左右逆なところへ熱いこだわりを感じるよ」

眼鏡を掛け、器用にノートパソコンを弄る花丸ちゃん。
高校時代に機械オンチだったのが嘘のように、巧みにデザインを次々と描き上げ屋台のCGモデルへ貼り付けてゆく。

梨子「今や花丸ちゃんが一番パソコンの扱いに長けてるかもね」

善子「ですって、ずら丸。褒められてるわよ」

スクールアイドルをやっていた頃からもう五年以上も経つのだ、みんな色々と変わって当然というものか。


18 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:51:51.04X8iHQg2iO (18/24)

デザイン案をまとめた資料と、予算見積もりの伝票は二時間ほどで完成。
その後は四人で茶菓子をつまみながら、妻が妊娠してから起こったアレコレの話に花を咲かせた。

https://i.imgur.com/VnqgAwW.jpg

梨子「千歌ちゃんってば大学の頃にバイトして貯めたお金を、丸ごと十千万の改修に充てたのよ」

花丸「ああ、だから前に来た時よりもバリアフリーが行き届いていたんだねぇ」

善子「正直ずら丸とリリーって、Aqours の頃はそんなに親しくしてなかったわよね?」

千歌「やっぱり善子ちゃんからもそう見えてた? でもすっかり仲良くなったよねぇ、ママ友として」

どうやらこの二人、市の子育て支援センターでたびたび顔を合わせるうちに、頻繁に喫茶店でおしゃべりする仲になったそうだ。
梨子ちゃんと善子ちゃんの場合と同じく、共通の経験を通じて友情が深まる様を見ていると、自分のことのように喜ばしい。


19 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:52:40.87X8iHQg2iO (19/24)

花丸「ところで前々から思っていたんだけど、千歌ちゃんも梨子ちゃんもいつも一歩先の未来を見ているよね?」

千歌「いやいや、わたし達予知能力者じゃないってば」

仮に未来が視えるのならば、わたしはもっと色んな場面で賢明な判断を下していたはずだ。

花丸「そいうことじゃなくて……いつも自分達だけが良ければいいやと思わずに、次の世代の人達のことまで考えている、っていう感じかなぁ?」

梨子「ああ、なるほどね。確かに千歌ちゃんはそうかもね」

善子「ほんと、千歌さんは大物よね。いつだって自分も周りも、みんなが幸せになればいいって考えるんだから」

千歌「そっかなぁ……えへへぇ」

三人から次々とお褒めの言葉を頂いたので、つい口元が緩んでしまう。

思い返せばわたしが何かを始めた時は、いつだってわたし個人のエゴが発端になっていた。

例えばスクールアイドルなら、何も持っていない自分だって輝きたいと望んだから。
でも段々と廃校を阻止したいとか、浦女の名をラブライブの歴史に遺したいというウェイトが大きくなっていった。

例えば梨子ちゃんをスクールアイドルに勧誘したのは、数合わせに加えて作曲ができる人が必要だったから。
でも段々と彼女の過去や人柄に触れていくうちに、またピアノと向き合えるようになってほしいという願いが強くなっていった。


20 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:53:34.66X8iHQg2iO (20/24)

梨子「自分のために始めたことでも、いつしか誰かのためとかみんなのためになっていく。そこが千歌ちゃんの凄いところであり、優しさだと思っているの」

千歌「梨子ちゃんってさ、やっぱりテレパスか何か?」

ちょうど貴女が語ったようなことを思い出していたのですが。

梨子「そんな人だから、私は千歌ちゃんが好きになったんだよ」

千歌「ありがとね、梨子ちゃん」

善子「はいはい、おノロケ乙」

花丸「ごちそうさまずら」

特別ノロケてたつもりはなくて、日常的なやり取りの範疇だと思うんだけどなぁ。

善子「かくいうリリーはいつ頃から未来志向に?」

梨子「あの夏の予備予選の後くらいからかな? 今度は私が誰かの背中を押せるようになりたい、って考え始めたのは」

梨子ちゃんがプロのピアニストを目指さず、中学校の先生になる道を選んだ一番の理由はそこにあった。
とりわけ中学生といえば、わたし達Aqours のメンバーが大きな悩みを抱えるようになった時期とも重なる。

梨子『多感な時期だからこそ、誰か親身に寄り添ってくれる人が必要だと思うの』

大学の進路について話をした際、彼女がこう主張したのである。


21 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:54:22.81X8iHQg2iO (21/24)

正直なところ、わたしはてっきり梨子ちゃんはプロの道を志していると決め付けていたので寝耳に水だった。
個人的には彼女が奏でる曲を一人でも多くの人に聴いてもらいたかったが、それ以上に彼女の夢を尊重したい気持ちが勝り、快く応援すると決めたのだ。

梨子ちゃんの熱意は本物であり、県内の教育大学在学中にしれっとカウンセラーの資格まで取っていたのは「さすがだ」と評さざるを得ない。

梨子「あと、教えることの楽しさに気付いたのもその頃かな」

よしまる「「ああ……なるほどね(ずら)」」

三人の視線が一挙にわたしへ向けられた。

千歌「わたしが宿題を自力でやらないでいたことが、巡り巡って梨子ちゃんのためになったのです!」

梨子「それ、全然自慢できることじゃないからね」

梨子ちゃんから漫才よろしく、右手でビシッとツッコミを入れられてしまう。

宿題の件はともかく、成功体験のみならず失敗も、苦悩も、挫折も、焦燥も、あの頃の全てが今のわたし達を形作るのに必要なことだった。
犬が苦手だったのを克服した梨子ちゃんが語ってくれたように、全てに意味があるのだ。

数々の素敵な経験は、わたしの心の奥底で今も色褪せることなく輝いている。


22 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:55:22.09X8iHQg2iO (22/24)

楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、気が付けば時計の針は夕方五時半を指していた。

善子「じゃあね。今度会うのはお産の日になるかもね」

花丸「お母さんになっても、今までどおりよろしくずら」

津島夫妻の車を見送ったわたし達は、特に言葉を交わすこともなく自然と手を繋ぎ、初めて話をした砂浜へと歩を進めた。
橙色に煌めく夕陽がゆっくり海へ還る光景が、あの日の記憶を思い起こさせる。

もし当時のわたしへ「わたしはその隣の娘へ恋をして、結婚して、娘まで授かる日が来るんだよ」と告げたところで、どこまで信じてもらえるだろうか。

梨子ちゃんが先に砂の上へ腰を下ろしたので、わたしは彼女がよしかかれるよう後ろで股を開き正座した姿勢を作った。

https://i.imgur.com/BpGOjZr.jpg

梨子「ふぅ……ちょっと疲れちゃった」

梨子ちゃんが力を抜いて体重を預けてくる。
妊娠する前と比べて十キロ以上も増えた彼女の重み──二人分の命の重み──が、ずっしりとわたしの胸にのしかかった。

千歌「久しぶりだったもんね、四人で集まっておしゃべりしたのって」


23 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:56:16.03X8iHQg2iO (23/24)

梨子「そうだね……うっ」

いきなり梨子ちゃんが呻き声を発したので「大丈夫⁉ 産まれそう⁉ 」と動揺してしまう。
でも、

梨子「ううん、梨歌がお腹を蹴っただけ」

と彼女が振り向きにっこりと笑顔を見せてくれたので、ほっと胸を撫で下ろした。

千歌「そっか、良かった」

梨子ちゃんが右手の甲をトントンと叩いてきたので、そのサインに応じて彼女の臨月を迎えたお腹をワンピース越しにそっと撫でる。

https://i.imgur.com/27KtOh1.jpg

梨歌と彼女を護る羊水がぱんぱんに詰まったお腹は、張りがあって意外と硬い。
梨子ちゃんは十か月もの間、文字どおり身体を張ってわたし達の娘を育ててくれたんだよね……と思い返すと、ありがとうの気持ちと愛しさが心の奥底から溢れんばかりに湧き上がってきた。

刹那、わたしの手が触れていた部分がモコッと盛り上がり、手のひらが軽く押し返される。

梨子「あっ、また蹴った。わかった?」

千歌「うん。わたしがもう一人のお母さんだってわかってるのかも」

そうだったら嬉しいなという思いを込め、妻の問い掛けへ答えた。

梨子ちゃんは「腕が鈍ったら困るし、胎教にもなるから」と妊娠してからも毎日欠かさずピアノを弾く時間を取っている。
だから梨歌は音を聞き分けるのに長けているはずだ。
こりゃ将来はお母さん顔負けの天才ピアニストになっちゃうかもね、我が娘は。


24 ◆EU9aNh.N462019/08/24(土) 23:57:03.79X8iHQg2iO (24/24)

人は何万年にもわたり歴史を、伝統を、文化を、技術を、そして命を次の世代へと繋ぐことでより良い社会を創ってきた。

わたし達がこれから生きる未来は「同性婚が社会全体へ認められるまでの過渡期に当たる時代だった」と後世の歴史家達が評するような激動の時代になるであろう。

そんな中で例えいかなる偏見に晒されようとも、わたしと梨子ちゃんの二人で梨歌が幸せに生きられる未来を創っていくつもりだ。

千歌「だから安心して産まれておいで、梨歌。わたしも梨子ちゃんも、君に逢える日を待ってるからね」


終わりです。
百合妊娠、最高です♡

https://i.imgur.com/mFyL7CP.jpg

今回はこれだけ小道具を使いました。
アザラシのぬいぐるみは臨月の膨らんだお腹を再現するのに用いました♡